カナダ総督とは? わかりやすく解説

カナダ総督

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/18 04:18 UTC 版)

カナダ
総督
Governor General of Canada
Gouverneur général du Canada
Gouverneure générale du Canada
総督紋章
総督旗
現職者
メアリー・サイモン
Mary Simon

就任日 2021年7月26日
地位 総督
カナダ元首代理)
庁舎 リドー・ホール(オタワ
シタデルケベック・シティ
所在地 オタワケベック・シティ
指名 首相
任命 カナダ国王
チャールズ3世
任期 陛下の仰せのままに
初代就任 The Viscount Monck
創設 1867年7月1日
ウェブサイト www.gg.ca
総督公邸であるリドー・ホール

カナダ総督(カナダそうとく、: Governor General of Canada: Gouverneur général du Canada(男)、Gouverneure générale du Canada(女))は、カナダにおける総督。カナダ国王の代理であり、通常はカナダの首相の指名によって、任命される。

概要

カナダはイギリス連邦に属し、カナダ国家元首であるカナダ国王イギリス国王が務める。カナダ総督は、イギリス国王がカナダ国王としての務めをするための代理役として任命され、国家元首としての職務を行う[1]。加えて、名目上のカナダ軍最高司令官も務める。カナダ総督の起源は、17世紀頃のイギリス領北アメリカ植民地に始まる[2]

任期は、コモン・ローのイギリス法体系の通例通り、明文化されず「陛下の仰せのままに」とされるが、5年がその目安となっている。公邸はオタワにあるリドー・ホールである。

国王は通常カナダ国外に滞在していることから、国王の代理として総督が任命される。国王がカナダの内政に関与することはなく、実質的な国王の権利行使はカナダ総督の任命のみである。それも通常カナダ首相の指名に基づいて行われ、国王の権利行使は形式的なものである。1867年から1931年までは、イギリス内閣の指名によって任命されており、カナダ首相による指名は、イギリスとカナダの関係が同君連合となったウエストミンスター憲章制定後である。「イギリス国王」は「カナダ国王」を兼位しており、実際カナダ滞在中などにはカナダ国王として行動するが、カナダ政府はイギリス政府から完全に独立している。

国王は国王大権を有し、行政権、立法権および司法権が帰属し、総督も君主の名により、それを用いることが許可されている。しかし、カナダは議院内閣制をとる立憲君主制度をとっており、総督が大権を行使することはほぼなく、実際は儀礼的なものに限定されている。規定は、1867年憲法法 (Constitution Act 1867) や1947年の勅許状等による。立法権は、カナダ連邦議会が持つ。連邦議会はカナダ国王、上院下院で構成されている。行政権首相及び内閣が有する。

「カナダ国王(イギリス国王)」代理として、長らくイギリス系白人男性のみが総督となっていた。これは20世紀後半から次第に変化し、性別、人種、民族などの多様性にも配慮した人選となった。

フランス系人初のカナダ総督は1959年の19代目で、モントリオール出身の軍人ジョルジュ・ヴァニエ英語版である。1984年5月14日には、女性初、フランス系カナダ人ジャンヌ・ソーベ英語版が第23代総督に就任した。1999年と2005年に続けて2人の女性総督が誕生した。第26代総督エイドリアン・クラークソンは香港系カナダ人(アジア系)、第27代総督ミカエル・ジャンはハイチ系カナダ人(黒人系)。第29代総督ジュリー・ペイエット宇宙飛行士経験者である。

各州には、それぞれの州におけるカナダ国王の代理として総督が任命する副総督が置かれている。

歴代総督一覧

脚注

  1. ^ 在日カナダ大使館. “カナダ総督の役割と責任”. 2016年7月19日閲覧。
  2. ^ MacLeod, Kevin S. (2008). A Crown of Maples (1 ed.). Ottawa: Queen's Printer for Canada. p. 34. ISBN 978-0-662-46012-1. http://www.pch.gc.ca/pgm/ceem-cced/fr-rf/crnCdn/crn_mpls-eng.pdf 

関連項目

外部リンク


カナダ総督

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/25 08:52 UTC 版)

ジョン・バカン」の記事における「カナダ総督」の解説

1935年8月10日カナダ首相府は国王バカン総督後任とするベネット推薦勅書によって承認したことを発表したバカンカナダ出発し11月2日式典ケベック州議会議事堂の赤の広間宣誓したバカンウェストミンスター憲章施行され以来初めてのカナダ総督であり、カナダ枢密院において国王の名のもとに裁可する最初の人となったバカン総督在任中も執筆続けていたが、同時に総督職務重要なものだと考えており、着任当初からカナダ全土くまなく訪れることを目標としていた。その中には総督として初め北極圏地方訪れることも含まれていた。彼は自分職務について「総督というものは特別な地位一つである。それというのもカナダ全土知りあらゆる住民を知ることがその職務であるからだ」と述べている。バカンまた、大恐慌とそれが人口構成与えた問題にもかかわらずカナダ人独自のアイデンティティ国民統合奨励した全てのカナダ人彼の考え方理解示したわけではない1937年モントリオール演説した際にはイギリス帝国一体性重んじる人々怒り買った。「カナダ人がまず忠誠を示すべき相手イギリス連邦ではありません。カナダでありカナダ国王であるのです。」この演説はモントリオール・ガゼット紙に「不忠と書かれてしまった。バカンエスニック・グループが「個性保持し各々カナダ国民としての特質寄与するべき」であり「最強国家異な人種集団から成り立っているもの」だとする考え方再三唱えていた。 1936年王室にとって明らかに激動1年だったとバカン考えていた。1月下旬ジョージ5世崩御し長男大衆的な人気があったエドワード王太子エドワード8世として即位したその頃オタワ総督官邸であるリドー・ホールには喪章掲げられ服喪期間中公式の行事はすべて中止された。年が変わらないうちに、新国王が離婚経験のあるアメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの結婚計画していることが明らかになり、各自治領でも反対論噴出したバカンバッキンガム宮殿時のイギリス首相スタンリー・ボールドウィンカナダ人国王深く尊敬の念抱いていることと、エドワードシンプソン結婚した場合に起こるであろうカトリックとプロテスタント双方宗教感情を害することを指摘した12月11日までにエドワードは弟のヨーク公アルバート賛成して退位することを決めたカナダにおける王位継承順位は他の自治領と同じままだったため、バカン退位について定めた英国本国法律カナダ政府として同意し最終的に1937年カナダ王継承法を裁可することでこのことを追認した。マッケンジー・キング国王退位の報をもたらしたとき、彼は総督として3人の王を代表することになったつぶやいている。 1939年5月から6月にかけて国王夫妻カナダ横断しカナダ国王立場国賓としてアメリカ合衆国迎えられた。国王歴訪1937年戴冠式以前からバカンによって構想されていたのだった公式行事についての歴史家であるグスタヴ・ランクトットによればこの構想は「おそらく戴冠式のようにジョージ6世カナダ国王というもう一つ肩書き実感するだろうという認識から生まれたのだった」。またバカンは「カナダ人が、彼らの王がカナダ閣僚に補佐されて王として役割担っているところを見る」ことにより、国王生身存在としてカナダ独立王国であるという事実を示そうとしていた。そのために1937年5月送った招待積極的な回答引き出そう多大な努力重ねたのである1年以上待ち続けたうえ、1938年6月に彼は休暇本国戻り訪問決定確実にようとしたオックスフォード近郊自宅からバカンマッケンジー・キング次のように書き送っている。「私にとって重要な問題は、もちろん国王カナダ訪問です」ルージン城での静養ののち、10月カナダ訪問確約を手にカナダ帰還した。彼は訪問とりまとめ当たって重要な貢献果たしたにも関わらず訪問中はリドー・ホール官邸に引きこもっていた。カナダ国王当地にあるときは「私は総督であることをやめ、影の法的な存在であるに留める」というのが彼の見解だった。カナダでは国王夫妻ライオンズ・ゲート・ブリッジ開通式を始め数々公的行事参加していた。 訪問背後にあったもう一つ要因には広報活動があった。カナダでの国王夫妻存在アメリカ合衆国ドイツへ反感先んじて英国への支持強めるよう計算されたものだった第一次世界大戦での経験からバカン戦争には否定的で、合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトカナダ首相マッケンジー・キング連携して新たな戦争回避しようとしていた。それでも同年9月には本国宣戦布告に少し遅れてジョージ6世同意の下、ドイツ宣戦布告をすることになった。それとともに名義上のカナダ軍最高司令官としてカナダ三軍総動員令を発した。これらの職務バカン長期間負担与えたわけではなかった。1940年2月6日リドー・ホール発作起こして転落し頭部重傷負ったモントリオール神経学研究所ワイルダー・ペンフィールド医師により2回の手術が実施されたが、一命取り留めることにはならず2月11日死去したキング首相によりラジオでその死が伝えられた。「閣下死去により、カナダ民衆歴代総督中でも最も偉大で尊敬すべき人物着任以来その人生を職務捧げた友人失ったのです」バカン私的な友人関係というよりは政治的な敬意によって培われたものであったとしても、ともかくキングとは固い絆で結ばれていた。キングバカン欠点例え爵位へのこだわり)には心を許さなかったが、その「真正廉直さと無私目標」を高く評価していた。オタワの聖アンドリューズ長老派教会ではバカン国葬営まれ遺灰軽巡洋艦オライオンによって英国運ばれ家族地所があるオックスフォードのエルズフィールドに埋葬された。 バカン晩年歴史書カナダについての著作と共に自叙伝Memory Hold-the-Doorを著している。バカン夫妻リドー・ホール最初専門図書館設立し、また夫人働きかけでカナダ総督文学賞Governor General's Literary Awards)を設け今日でもカナダ最高の文学賞として存続している。100冊にのぼる著作中には30近い長編小説7つ短編小説集、それにウォルター・スコットアウグストゥス帝、オリヴァー・クロムウェル伝記がある。モントローズ侯伝記によってジェイムズ・テイト・ブラック記念賞受賞しているが、バカンの最も有名な著作はやはりスパイ小説であり、今日でもそれらによって記憶されている。(グレアム・グリーン有名な書評名付けた)「最後バカン作品」は1941年刊行された『傷心の川』(Sick Heart Riverであったブリティッシュ・コロンビア州のトゥイーズミュア州立公園(現在はトゥイーズミュア北・トゥイーズミュア南・保護区の3つ分割されている)は1937年レインボー丘陵訪れたバカン記念して1938年創設された。

※この「カナダ総督」の解説は、「ジョン・バカン」の解説の一部です。
「カナダ総督」を含む「ジョン・バカン」の記事については、「ジョン・バカン」の概要を参照ください。

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