カナダ総督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/18 04:18 UTC 版)
![]() 総督 Governor General of Canada Gouverneur général du Canada Gouverneure générale du Canada |
|
---|---|
![]()
総督紋章
|
|
![]()
総督旗
|
|
地位 | 総督 (カナダ元首代理) |
庁舎 | リドー・ホール(オタワ) シタデル(ケベック・シティ) |
所在地 | オタワ、ケベック・シティ |
指名 | 首相 |
任命 | カナダ国王 (チャールズ3世) |
任期 | 陛下の仰せのままに |
初代就任 | The Viscount Monck |
創設 | 1867年7月1日 |
ウェブサイト | www.gg.ca |

カナダ総督(カナダそうとく、英: Governor General of Canada、仏: Gouverneur général du Canada(男)、Gouverneure générale du Canada(女))は、カナダにおける総督。カナダ国王の代理であり、通常はカナダの首相の指名によって、任命される。
概要
カナダはイギリス連邦に属し、カナダの国家元首であるカナダ国王はイギリス国王が務める。カナダ総督は、イギリス国王がカナダ国王としての務めをするための代理役として任命され、国家元首としての職務を行う[1]。加えて、名目上のカナダ軍最高司令官も務める。カナダ総督の起源は、17世紀頃のイギリス領北アメリカ植民地に始まる[2]。
任期は、コモン・ローのイギリス法体系の通例通り、明文化されず「陛下の仰せのままに」とされるが、5年がその目安となっている。公邸はオタワにあるリドー・ホールである。
国王は通常カナダ国外に滞在していることから、国王の代理として総督が任命される。国王がカナダの内政に関与することはなく、実質的な国王の権利行使はカナダ総督の任命のみである。それも通常カナダ首相の指名に基づいて行われ、国王の権利行使は形式的なものである。1867年から1931年までは、イギリス内閣の指名によって任命されており、カナダ首相による指名は、イギリスとカナダの関係が同君連合となったウエストミンスター憲章制定後である。「イギリス国王」は「カナダ国王」を兼位しており、実際カナダ滞在中などにはカナダ国王として行動するが、カナダ政府はイギリス政府から完全に独立している。
国王は国王大権を有し、行政権、立法権および司法権が帰属し、総督も君主の名により、それを用いることが許可されている。しかし、カナダは議院内閣制をとる立憲君主制度をとっており、総督が大権を行使することはほぼなく、実際は儀礼的なものに限定されている。規定は、1867年憲法法 (Constitution Act 1867) や1947年の勅許状等による。立法権は、カナダ連邦議会が持つ。連邦議会はカナダ国王、上院、下院で構成されている。行政権は首相及び内閣が有する。
「カナダ国王(イギリス国王)」代理として、長らくイギリス系白人男性のみが総督となっていた。これは20世紀後半から次第に変化し、性別、人種、民族などの多様性にも配慮した人選となった。
フランス系人初のカナダ総督は1959年の19代目で、モントリオール出身の軍人ジョルジュ・ヴァニエである。1984年5月14日には、女性初、フランス系カナダ人のジャンヌ・ソーベが第23代総督に就任した。1999年と2005年に続けて2人の女性総督が誕生した。第26代総督エイドリアン・クラークソンは香港系カナダ人(アジア系)、第27代総督ミカエル・ジャンはハイチ系カナダ人(黒人系)。第29代総督ジュリー・ペイエットは宇宙飛行士経験者である。
各州には、それぞれの州におけるカナダ国王の代理として総督が任命する副総督が置かれている。
歴代総督一覧
脚注
- ^ 在日カナダ大使館. “カナダ総督の役割と責任”. 2016年7月19日閲覧。
- ^ MacLeod, Kevin S. (2008). A Crown of Maples (1 ed.). Ottawa: Queen's Printer for Canada. p. 34. ISBN 978-0-662-46012-1
関連項目
外部リンク
カナダ総督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/25 08:52 UTC 版)
1935年8月10日にカナダ首相府は国王がバカンを総督の後任とするベネットの推薦を勅書によって承認したことを発表した。バカンはカナダに出発し、11月2日の式典でケベック州議会議事堂の赤の広間で宣誓した。バカンはウェストミンスター憲章が施行されて以来、初めてのカナダ総督であり、カナダ枢密院において国王の名のもとに裁可する最初の人物となった。バカンは総督在任中も執筆を続けていたが、同時に総督の職務を重要なものだと考えており、着任当初からカナダ全土をくまなく訪れることを目標としていた。その中には総督としては初めて北極圏地方を訪れることも含まれていた。彼は自分の職務について「総督というものは特別な地位の一つである。それというのもカナダ全土を知り、あらゆる住民を知ることがその職務であるからだ」と述べている。バカンはまた、大恐慌とそれが人口構成に与えた問題にもかかわらず、カナダ人独自のアイデンティティと国民の統合を奨励した。全てのカナダ人が彼の考え方に理解を示したわけではない。1937年にモントリオールで演説した際にはイギリス帝国の一体性を重んじる人々の怒りを買った。「カナダ人がまず忠誠を示すべき相手はイギリス連邦ではありません。カナダでありカナダ国王であるのです。」この演説はモントリオール・ガゼット紙に「不忠」と書かれてしまった。バカンはエスニック・グループが「個性を保持し、各々がカナダ国民としての特質に寄与するべき」であり「最強の国家は異なる人種集団から成り立っているもの」だとする考え方を再三唱えていた。 1936年は王室にとって明らかに激動の1年だったとバカンは考えていた。1月下旬にジョージ5世が崩御し、長男で大衆的な人気があったエドワード王太子がエドワード8世として即位した。その頃オタワの総督官邸であるリドー・ホールには喪章が掲げられ、服喪期間中公式の行事はすべて中止された。年が変わらないうちに、新国王が離婚経験のあるアメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの結婚を計画していることが明らかになり、各自治領でも反対論が噴出した。バカンはバッキンガム宮殿と時のイギリス首相スタンリー・ボールドウィンにカナダ人が国王に深く尊敬の念を抱いていることと、エドワードがシンプソンと結婚した場合に起こるであろう、カトリックとプロテスタント双方の宗教感情を害することを指摘した。12月11日までにエドワードは弟のヨーク公アルバートに賛成して退位することを決めた。カナダにおける王位継承順位は他の自治領と同じままだったため、バカンは退位について定めた英国本国の法律にカナダ政府として同意し、最終的には1937年にカナダ王位継承法を裁可することでこのことを追認した。マッケンジー・キングが国王退位の報をもたらしたとき、彼は総督として3人の王を代表することになったとつぶやいている。 1939年5月から6月にかけて国王夫妻はカナダを横断し、カナダ国王の立場で国賓としてアメリカ合衆国に迎えられた。国王の歴訪は1937年の戴冠式以前からバカンによって構想されていたのだった。公式行事についての歴史家であるグスタヴ・ランクトットによればこの構想は「おそらく戴冠式のようにジョージ6世がカナダ国王というもう一つの肩書きを実感するだろうという認識から生まれたものだった」。またバカンは「カナダ人が、彼らの王がカナダの閣僚に補佐されて王としての役割を担っているところを見る」ことにより、国王が生身の存在としてカナダが独立王国であるという事実を示そうとしていた。そのために1937年5月に送った招待へ積極的な回答を引き出そうと多大な努力を重ねたのである。1年以上待ち続けたうえ、1938年6月に彼は休暇で本国に戻り、訪問の決定を確実にしようとした。オックスフォード近郊の自宅からバカンはマッケンジー・キングに次のように書き送っている。「私にとって重要な問題は、もちろん国王のカナダ訪問です」ルージン城での静養ののち、10月にカナダ訪問の確約を手にカナダに帰還した。彼は訪問のとりまとめに当たって重要な貢献を果たしたにも関わらず、訪問中はリドー・ホールの官邸に引きこもっていた。カナダ国王が当地にあるときは「私は総督であることをやめ、影の法的な存在であるに留める」というのが彼の見解だった。カナダでは国王夫妻はライオンズ・ゲート・ブリッジの開通式を始め数々の公的行事に参加していた。 訪問の背後にあったもう一つの要因には広報活動があった。カナダでの国王夫妻の存在はアメリカ合衆国にドイツへの反感に先んじて英国への支持を強めるよう計算されたものだった。第一次世界大戦での経験からバカンは戦争には否定的で、合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトやカナダ首相マッケンジー・キングと連携して新たな戦争を回避しようとしていた。それでも同年9月には本国の宣戦布告に少し遅れてジョージ6世の同意の下、ドイツに宣戦布告をすることになった。それとともに名義上のカナダ軍最高司令官としてカナダ三軍の総動員令を発した。これらの職務はバカンに長期間負担を与えたわけではなかった。1940年2月6日にリドー・ホールで発作を起こして転落し頭部に重傷を負った。モントリオール神経学研究所のワイルダー・ペンフィールド医師により2回の手術が実施されたが、一命を取り留めることにはならず、2月11日に死去した。キング首相によりラジオでその死が伝えられた。「閣下の死去により、カナダ民衆は歴代総督の中でも最も偉大で尊敬すべき人物、着任以来その人生を職務に捧げた友人を失ったのです」バカンは私的な友人関係というよりは政治的な敬意によって培われたものであったとしても、ともかくキングとは固い絆で結ばれていた。キングはバカンの欠点(例えば爵位へのこだわり)には心を許さなかったが、その「真正の廉直さと無私の目標」を高く評価していた。オタワの聖アンドリューズ長老派教会ではバカンの国葬が営まれ、遺灰は軽巡洋艦オライオンによって英国に運ばれ、家族の地所があるオックスフォードのエルズフィールドに埋葬された。 バカンは晩年歴史書やカナダについての著作と共に自叙伝Memory Hold-the-Doorを著している。バカン夫妻はリドー・ホールに最初の専門図書館を設立し、また夫人の働きかけでカナダ総督文学賞(Governor General's Literary Awards)を設け 、今日でもカナダ最高の文学賞として存続している。100冊にのぼる著作の中には30近い長編小説、7つの短編小説集、それにウォルター・スコット、アウグストゥス帝、オリヴァー・クロムウェルの伝記がある。モントローズ侯の伝記によってジェイムズ・テイト・ブラック記念賞を受賞しているが、バカンの最も有名な著作はやはりスパイ小説であり、今日でもそれらによって記憶されている。(グレアム・グリーンが有名な書評で名付けた)「最後のバカン作品」は1941年に刊行された『傷心の川』(Sick Heart River)であった。ブリティッシュ・コロンビア州のトゥイーズミュア州立公園(現在はトゥイーズミュア北・トゥイーズミュア南・保護区の3つに分割されている)は1937年にレインボー丘陵を訪れたバカンを記念して1938年に創設された。
※この「カナダ総督」の解説は、「ジョン・バカン」の解説の一部です。
「カナダ総督」を含む「ジョン・バカン」の記事については、「ジョン・バカン」の概要を参照ください。
- カナダ総督のページへのリンク