ニュージーランド総督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/25 20:09 UTC 版)
![]() 総督 Governor-General of New Zealand Te Kāwana Tianara o Aotearoa |
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呼称 | His/Her Excellency the Right Honourable(閣下) |
庁舎 | 政府総督公邸、ウェリントン |
指名 | ニュージーランド首相 |
任命 | ニュージーランド国王 (首相の助言に基づく) |
任期 | 陛下の仰せのままに (慣例では通常5年) |
初代就任 | ウィリアム・ホブソン (Governor of New Zealand) |
創設 | 1841年5月3日 |
俸給 | 年間NZ$371,900[1] |
ウェブサイト | gg.govt.nz |
ニュージーランド総督(ニュージーランドそうとく、英: Governor-General of New Zealand、マオリ語: Te Kawana Tianara o Aotearoa)は、ニュージーランド王国の総督。ニュージーランドの1986年憲法法(Constitution Act 1986)では、第二条において、総督はニュージーランドの国家元首であるニュージーランド国王(イギリス国王)によって任命され、その代理を務めるとある[2][3]。このため、事実上の国家元首としても扱われる[4][5]。1841年にウィリアム・ホブソンが副総督として任命されたことが始まりである。1917年以降は現在の職名(Governor-General)を採用している[3]。
任命
ニュージーランドの首相に指名され、ニュージーランド国王に任命された人物が総督に就任する。
総督任期は明文化されておらず、慣例法で最低5年とされている[3]。過去には5年を超える任期を務めた総督も存在するが、通例5年で任期満了を迎える。
職務
ニュージーランド総督には立憲君主(ニュージーランド国王の代理)としての職務、祭礼・儀礼の職務、地域社会への職務がある。
また、ニュージーランドと自由連合関係にあるニウエの総督も兼任している[6]。ただし、同じく自由連合関係にあるクック諸島においては国王名代がその職務を行う。
ニュージーランド国王の代理人として議会や首相に対しての権限を有し、祭礼・儀礼上の職務として公式行事、式典出席、海外からの来賓との接見、海外訪問などを行う。
地域社会への職務として、学校訪問、ニュージーランド国内で催される年間約400のスポーツ、芸術、文化行事への出席がある。
総督として有する権限・官職

- 議会の解散権
- 内閣の任命権
- 内閣の解散権
- 首相の任免権
- 首相による選挙公示の謝絶権
- 法制定同意への謝絶権
- 恩赦及び再審に関する権限(Royal prerogative of mercy)[7]
- 国防軍最高司令官(Commander-in-Chief)[8]
立憲君主制のニュージーランドでは議会が立法権を持ち、首相と内閣府が実質的な行政権を持つため、ニュージーランド国王またはニュージーランド総督が政治に直接関与することはできない。
総督の解任権
ニュージーランドの首相はニュージーランド総督を解任できる解任請求権を持つ。
ニュージーランド国王はニュージーランド首相の解任請求権により、ニュージーランド総督の解任手続きを取ることができるが、ニュージーランド総督が解任された実例は存在しない。
歴代総督一覧
総督公邸

総督の住まいはウェリントンニュータウン地区に所在する政府総督公邸。旧首都にしてニュージーランド最大都市のオークランドにも公邸を持ち、ニュージーランド国王(イギリス国王と同一人物)訪問時には宿舎として使用される。
脚注
- ^ “Governor-General (Salary) Determination 2020”. legislation.govt.nz. Parliamentary Counsel Office (2016年). 2017年6月1日閲覧。
- ^ “Constitution Act 1986”. New Zealand Government. 2019年6月9日閲覧。
- ^ a b c 矢部明宏 (2003年12月). “諸外国の憲法 ニュージーランド”. 国立国会図書館. 2016年8月13日閲覧。
- ^ McLean 2006, p. 17.
- ^ “Republic 'inevitable' - Clark”. The Evening Post. (2002年3月4日)
- ^ Section 1 Executive authority vested in the Crown, The Constitution of Niue
- ^ “The Royal prerogative of mercy”. New Zealand Government. 2019年6月9日閲覧。
- ^ “Defence Act 1990”. New Zealand Government. 2019年6月9日閲覧。 1990年国防法 第5条及び第6条
参考文献
- McLean, Gavin (2006). The Governors: New Zealand's Governors and Governors-General. Dunedin: Otago University Press. ISBN 978-1-877372-25-4
関連項目
外部リンク
- The Governor-General of New Zealand(英語版)
- History of the Governor-General, NZHistory
- Former Governors-General, the Governor-General website
ニュージーランド総督
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「ロバート・フィッツロイ」の記事における「ニュージーランド総督」の解説
ニュージーランドの初代総督ウィリアム・ホブソンは1842年に死去した。ニュージーランドで強い発言権を持っていた伝道協会は後継者としてフィッツロイを指名した。彼は1843年12月に着任したが、それは困難な仕事だった。秩序を維持し、マオリの人々を保護し、同時に押し寄せてくる移民の土地の要求に応えるよう指示した。手元にある軍事力はわずかで、総督府の収入は関税に頼っていたためにまったく不十分だった。 最初の任務の一つはワイラウ大虐殺の状況の調査であった。彼は入植者の行動が違法だったことに気づき、軍備の薄さにもよってマオリ側の指導者Te Rauparahaと対立することを避けた。しかしニュージーランドカンパニーと移民は裏切りだと感じた。その結果、彼は地域を統制するための管理官を設置した。またニュージーランドカンパニーが購入したと主張したマオリ族の土地に対して、より現実的な代価を払うよう要求した。これらの行動によってフィッツロイの評判は悪化した。土地の売買は継続的な問題だった。移民は土地を買いたがり、一部のマオリ人は売るつもりがあった。しかしワイタンギ条約の下で土地の売買は政府を仲介者としてゆっくりとしか行われなかった。財政の不足を補うためにフィッツロイは関税を上げ、資産税と所得税を導入した。これらの方策はすべて失敗し、植民地政府は破産に直面した。フィッツロイは空手形を切らざるを得なくなった。 一方ニュージーランド北端に住むマオリ族は端に追いやられていると感じ、ニュージーランドの変化を不満に思っていた。彼らは憤慨を示すために英国旗を切り倒した。フィッツロイは問題に対応するのではなく、旗を戻しただけだった。彼らはまた旗を切り倒し、4度繰り返された。4度目に旗が切り倒されたとき、すでに最初のニュージーランド戦争はかなり進行していた。戦争の早期終結のための戦力がないことはすぐに明らかになった。ニュージーランドカンパニーのスポークスマンはイギリスに戻り、フィッツロイの指導力の欠如を証言した。フィッツロイはすぐに呼び戻され、サウスオーストラリア総督ジョージ・グレイが代理を務めた。グレイはフィッツロイが必要とした支援を与えようとしたが、拒否された。
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