国葬
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国葬(こくそう、英: state funeral、英: public funeral)とは、国家にとって特別な功労があった人物の死去に際し、国費で実施される葬儀のことである[1]。
注釈
- ^ 自民党と田中家の合同葬。田中角栄が死去した1993年12時点から翌1994年6月まで田中が在籍していた自民党は野党であった。田中死去当時の首相の細川護熙は非自民政権内閣の首相ではあるが、自民党在籍した経験もあり田中派に所属していた過去もある。田中が内閣葬にならなかったのはロッキード事件の刑事裁判で一二審で実刑判決を受けて上告中だったことが影響しているとされる(そのこともあり、田中は死後に叙位叙勲を受けることができなかった)。
- ^ 民進党と羽田家の合同葬。
- ^ 自民党葬。
- ^ 島根県掛合町・自民党島根県連・竹下家の合同葬。
- ^ 近親者のみの葬儀。
- ^ 当初は2020年(令和2年)3月15日に行われる予定だったが新型コロナウイルスの感染拡大の影響により延期となった。
- ^ 被葬者が最高指導者の場合は最高人民会議常任委員長が葬儀委員長となる。
出典
- ^ a b 国葬とは コトバンク 2022年7月20日閲覧。
- ^ a b 粟津賢太『記憶と追悼の宗教社会学 戦没者祭祀の成立と変容』
- ^ a b “(ひもとく)国葬を考える 変わる共同体、弔いの意義は 山田慎也”. 朝日新聞デジタル. (2022年9月17日) 2022年9月26日閲覧。
- ^ 「葬儀の方法 宮内庁で協議」『朝日新聞』1951年(昭和26年)5月18日1面
- ^ 中島三千男「戦後皇族葬儀考 -戦後史における皇族と国民-」『日本史研究』第300号、日本史研究会、1987年8月20日、104-132頁、ISSN 0386-8850、hdl:10487/9452。
- ^ “ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事”. 宮内庁ホームページ. 2020年10月30日閲覧。
- ^ “故吉田茂の葬儀の執行について”. 国立公文書館 (1967年10月23日). 2022年7月22日閲覧。
- ^ a b 『官報』第12262号12ページ官庁事項 総理府「故吉田茂国葬儀の期日及び場所」1967年10月28日
- ^ 内閣総理大臣官房 編『故吉田茂国葬儀記録』1968年3月30日。NDLJP:2982404。
- ^ a b c d e f g h i j k 安倍氏国葬、歴代首相との違いは? ビジュアル解説:日本経済新聞
- ^ 第10回国会 参議院 議院運営委員会 第43号 昭和26年5月18日-国会会議録検索システム– 近藤英明参議院事務総長の答弁「前には皇太后陛下の場合は必らず国葬儀を以て行われておりました。」
- ^ 故元帥海軍大将山本五十六葬儀事務関与者賞与綴・故山本元帥国葬儀警戒手当ニ関スル件−国立公文書館デジタルアーカイブ
- ^ 故東郷元帥国葬儀当日生前ノ勲功ニ関スル訓話ヲ為シ哀悼ノ意表示方−国立公文書館デジタルアーカイブ
- ^ 国葬儀トシテ行フ諸儀発表方−国立公文書館デジタルアーカイブ
- ^ 第61回国会 参議院 内閣委員会 第25号 昭和44年7月1日 - 国会会議録検索システム
- ^ 第58回国会 衆議院 決算委員会 第15号 昭和43年5月9日 - 国会会議録検索システム
- ^ 故吉田茂国葬儀当日における弔意表明について,閣議了解,昭和42年10月25日
- ^ “安倍氏国葬、内閣府設置法が根拠 「国の儀式」に”. 産経新聞. (2022年7月16日) 2022年7月22日閲覧。
- ^ 日本放送協会 (2022年7月15日). “安倍元首相の「国葬」 ことし秋に行う方針 岸田首相が表明”. NHK NEWS WEB. 2022年7月15日閲覧。
- ^ 時事通信 (2022年7月22日). “安倍氏国葬9月27日 半世紀ぶり、無宗教形式で―閣議決定”. 2022年7月23日閲覧。
- ^ 前田修輔 2021, p. 67.
- ^ 『官報』第10977号付録資料版10ページ「官報関係歴史年表」1963年7月20日
- ^ 国庫負担額は4510万円[10]
- ^ 国庫負担額は1億1870万円[10]
- ^ 国庫負担額は7334万円[10]
- ^ 国庫負担額は7555万円[10]
- ^ 国庫負担額は7703万円[10]
- ^ 国庫負担額は7585万円[10]
- ^ 国庫負担額は7959万円[10]
- ^ “What time is the Queen's state funeral? Will shops and schools close?”. BBC (2022年9月14日). 2022年9月14日閲覧。
- ^ 篠田航一「英国葬「偉業」基準 ニュートン、ネルソン、チャーチル…」『毎日新聞』、2022年9月15日。2022年9月16日閲覧。
- ^ Deb, H.C. (1965年1月25日). “Death of Sir Winston Churchill (Hansard, 25 January 1965)”. api.parliament.uk. 2019年9月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月16日閲覧。
- ^ “公葬禁止の意向に伴う国葬の取扱について”. 国立公文書館 (1946年6月27日). 2022年7月17日閲覧。
- ^ “ゴルバチョフ氏葬儀・告別式、「国葬」ではなく静かな別れ…米英独は駐露大使が参列”. 読売新聞. (2022年9月3日) 2022年9月8日閲覧。
- ^ “国葬に近い形で告別式か ロシア大統領府が執行”. 共同通信. (2022年9月1日). オリジナルの2022年9月1日時点におけるアーカイブ。 2022年9月8日閲覧。
- ^ “ゴルバチョフ元大統領が死去、91歳 ソ連最後の指導者”. BBC News Japan. (2022年8月31日) 2022年9月8日閲覧。
- ^ 「ノーベル平和賞マータイさんに最後の別れ、ケニア首都で国葬」『Reuters』、2011年10月10日。2022年7月14日閲覧。
- ^ 金正恩氏 民用航空総局長の死去に異例の哀悼 - 聯合ニュースHP 2017年1月23日掲載。
- ^ a b “ベトナム、ザップ将軍の国葬開始/「救国の英雄」”. 四国新聞. (2013年10月12日) 2020年10月30日閲覧。
国葬
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政府は2007年10月17日、トシェ・プロエスキの国葬を故郷のクルシェヴォで行い、マケドニア共和国軍と国家防衛隊による栄誉礼、軍楽隊、礼砲3発などを含む名誉式典が捧げられた。葬儀はMacedonian TVによって国内外へ中継され、また、大統領ブランコ・ツルヴェンコフスキ、首相ニコラ・グルエフスキ、マケドニア議会議員および議長リュビシャ・ゲオルギエフスキ(Ljubiša Georgievski)、アメリカ合衆国および欧州連合の駐マケドニア大使のジリアン・ミロヴァノヴィッチ(Gillian Milovanovic)、エルワン・フエーレ(Erwan Fouéré)、アメリカ合衆国国際開発庁、赤十字やその他の国や組織の大使らが参列した。参列者には、マケドニア国内外の有名なミュージシャンたちも名を連ね、カロリーナ・ゴチェヴァ、カリオピ、ヴラド・ヤネフスキ、ランベ・アラバコスキ(Lambe Alabakoski)、 エレナ・リステスカ、ヨヴァン・ヨヴァノフ(Jovan Jovanov)、マルティン・ヴチッチ、アドリアン・ガジャ、ティヤナ・ダプチェヴィッチと彼女の妹タマラ・トデフスカ、パルニ・ヴァリャック(Parni Valjak)リーダーのアキ・ラヒモフスキ(Aki Rahimovski)、トニ・ツェティンスキ、ツェツァ、ジェリコ・ヨクシモヴィッチらが訪れた。 トシェは正教会の信者であったことにより、埋葬式はオフリド大主教ステファン率いるマケドニア正教会が行った。
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国葬
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崩御から約1年後の2017年10月26日(現地時刻)、バンコクの王宮前広場に設置された施設で火葬儀式が行われ、荼毘に付された。 タイ政府は同年10月29日を以て服喪期間が終了したことを宣言するとともに、火葬を執り行った施設を同年11月2日~30日に一般公開した。一般公開はその後、同年の12月31日まで延長された。
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国葬
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「ネルソン・マンデラの死」の記事における「国葬」の解説
12月15日に東ケープ州クヌでマンデラの国葬が執り行われた。国葬はテントの中で開催され、各国の首脳や政府高官など4,500人が出席した。テントの中はテレビ中継される予定だったが、マンデラの遺族の要請で、事前に撮影と放送が中止されている。代わりに、式場の周辺にスクリーンが設置され、テントの外の様子が流されることになった。マンデラの埋葬には遺族や南ア政府高官の他、事前に選ばれた450人が立ち会った。埋葬の直前、マンデラには21発の弔砲とミッシングマン・フォーメーション(英語版)が贈られた。
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国葬
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「ジャン・ド・ラトル・ド・タシニ」の記事における「国葬」の解説
ド・ラトルは、ライフ誌が「1929年のフォッシュ元帥の死以来、フランスで行われた最大の軍人の葬義」と評した国葬をもって、死の5日後に埋葬された。棺に納められた遺体は葬列をもって移動し、自宅、廃兵院、凱旋門、ノートルダム大聖堂で正装安置に付された。葬列にはフランスの閣僚、裁判官、司教、そして西側諸国の軍関係者が参列した。棺側付添人には、バーナード・モントゴメリーやドワイト・D・アイゼンハワーなど、第二次世界大戦で共に戦った連合国軍の将官の姿があった。 葬列のルートにはリヴォリ通りとシャンゼリゼ通りが含まれており、凱旋門からノートルダム大聖堂、続いて廃兵院へ向かった。凱旋門からノートルダム大聖堂までの移動は夜間に行われ、棺には燃える松明を持ったフランス共和国親衛隊の騎兵が付いた。 葬列で行進する兵士の後ろには喪服姿で祈りながら歩く未亡人シモーネの姿があった。何千人もの人々が葬列のルートに並び、10人ほどの深さの列ができた。また、鐘の音が鳴り響き、旗はすべて半旗とされた。 葬儀の最後にはフランス西部の故郷ムイユロン=アン=パルまで400km移動した。97歳の父ロジェ・ド・ラトル・ド・タシニは高齢のため盲目になっており、棺に飾られた元帥杖とド・ラトルが身に着けていたケピ帽などに手を触れたという。ロジェは孫に続いて息子も失うことになり、ド・ラトル・ド・タシニ家はロジェの死をもって絶えることになった。 その後、棺は地面に降ろされ、約8か月前にインドシナでド・ラトルの指揮下で戦って戦死した一人息子ベルナールのそばに横たえられた。
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国葬
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「ロナルド・レーガンの死と国葬」の記事における「国葬」の解説
34時間が過ぎて遺体の一般公開(英語版)が終了した。ナンシー夫人は短時間だけ一人で棺と向かい合った後に連邦議会議事堂の西階段下部で待機し、礼砲を合図に儀仗兵が棺を議事堂の外に運搬するのを左胸に手を当てて見送った。棺が霊柩車に入れられた後、車列は国葬式典が行われる5マイル (約8km)離れたワシントン大聖堂までの旅を開始した。群集は葬列の進路沿いに並んで霊柩車を待ち構えた。
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