ファン・マヌエル・ファンジオ(アルゼンチン)
通算5回、ワールドチャンピオンを獲得したもっとも偉大なるドライバー。若き日は自らクルマを改造して、何千キロにもわたる南米の山岳ラリーに参加、メカニズムについての知識とクルマをコントロールする技術、そして余人のおよばないスタミナを身につけた。ヨーロッパのレースに参戦する機会を得たのは戦後。ペロン政権にバックアップされたアルゼンチン自動車連盟が最新のマシンを購入して、自国のドライバーを本場のレースに送り出すことにしたときで、彼は既に30代の後半に達していた。ライトブルーのボディにイエローのボンネットというアルゼンチンのナショナルカラーに塗られたゴルディーニや、マセラティのシングルシーターでほどなくファンジオはワークスチームの注目するところとなり、50年にアルファロメオのドライバーに迎えられた。彼のドライビングスタイルはヌボラーリとは対称的で、コンスタントに高いペースを保って走った。また、メカニズムへの深い知識からマシンを壊すことも少なく、不調に陥ったマシンを労わって完走させるところにあった。さらにタイムを向上させる余裕をもち、ライバルが速いタイムを記録すれば、直ちにそれよりわずかに速いタイムを出してポールポジションを確保した。スターリング・モスをチームメートとして走った55年には、レース後にメルセデスのメカニックが両者のマシンをチェックしたところ、モスの酷使した状態とは異なり、ファンジオのマシンはあと数レースはそのまま使用できるレベルにあったということからも、彼の特質をうかがうことができる。この50年シーズンのF1ではモナコとベルギー、フランスの3戦に勝利を収め、チームメイトのジュゼッペ・ファリナに続くランキング2位。翌日年には念願のワールドチャンピオンに。54年から57年にかけてはマセラティやメルセデス、あるいはフェラーリを駆り前人未到の4連覇も達成した。最高のレースは5回目のワールドチャンピオンを決定的にした57年のドイツGPで、給油時に予想外のタイムロスをしたにもかかわらず、ファンジオのマセラティ250Fは後半、鬼神が乗り移ったような追い上げで、前を行くコリンズとホーソンのフェラーリをかわして優勝したのである。翌58年にレースを引退してからはアルゼンチンにもどり、メルセデス・ベンツのディーラーを営んだ。
第2次世界大戦前から有名なこのコースはケムニッツの市街地を閉鎖した公道サーキットで、1920年代からさまざまな2輪、4輪のレースが8.731kmのコースで開催されてきた。東西ドイツが統合されたあと、さすがに人口の多い場所で公道レースは難しく、ケムニッツの西8kmの場所に新たにサーキットが建設された。96年に完成したこのコースは、1周3.704kmで、ストレートは780mと短く、タイトコーナーが続く低速コース。2リッターのツーリングカー STWやMoto GPなどの舞台となっている。
ファン・マヌエル・ファンジオ
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ファン・マヌエル・ファンジオ・デラモ(Juan Manuel Fangio Déramo, 1911年6月24日 - 1995年7月17日)は、アルゼンチンのレーシングカー・ドライバーである。F1において5回のワールドチャンピオンに輝いているが、これは2003年にミハエル・シューマッハに破られるまで、46年間も史上最多記録を誇っていた。
- ^ 『ファンジオ自伝』、13頁。
- ^ 『ファンジオ自伝』、15頁。
- ^ “Motorsport Memorial - Daniel Urrutia”. Motorsport Memorial. 2022年8月9日閲覧。
- ^ a b 当時F1世界選手権にカウントされていたインディ500には参加していない。
- ^ 1967年モナコグランプリでのロレンツォ・バンディーニ死亡事故や、1977年南アフリカグランプリでのトム・プライス死亡事故など。また本文中にもある1955年のル・マン24時間レースで発生した大事故では、その映像に加え本人による模型を用いた解説シーンがある。
- ^ a b c d e 『新ハイスピード・ドライビング』p.140。
- ^ 『F1倶楽部 vol.6 モナコグランプリ物語』 双葉社、1994年、43 - 44頁。
- ^ a b c 『死のレース 1955年 ルマン』p.167。
- ^ 特集:1958年キューバGP - ESPN F1(2011年3月18日)
- 1 ファン・マヌエル・ファンジオとは
- 2 ファン・マヌエル・ファンジオの概要
- 3 来歴
- 4 業績
- 5 レース戦績
- 6 出典
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