独立王国
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アッティラの死後、その重臣であったゲピド族のアルダリックのもとにスキリア族、ヘルール族、ルギイ族などが集まり、フン族に反旗を翻した。彼らは454年のネダオ河畔の戦いでアッティラの長男エラクに勝利し、戦死させた。その後、エデコという男がスキリア族を率いてドナウ川中流部とティサ川の間に挟まれたアルフュルト中部に独自の王国を築き、息子のオドアケルやオノウルフスと共に統治した。もともとアッティラの信任厚い重臣の一人にエデコという人物がおり、一般にスキリア族の王国の建国者と同一視されている。フン帝国時代のエデコは、アッティラの使節として東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに赴いており、その返礼の使者が画策したアッティラ暗殺計画を未然に防ぐ功を立てていた。エデコ自身はおそらくスキリア族の一員ではなかったが、スキリア族の貴族の娘と結婚していた可能性がある。彼自身はテューリンゲン族もしくはフン族、あるいはその両方を祖とする血統の持ち主だったと考えられている。同じ東ローマ帝国の著述家でも、マルチュスはエデコをテューリンゲン族とし(スーダ辞典に残る引用記述)、プリスクスはフン族であるとしている。後世では、ゴッファルトがフン族説を採用しているのに対し、ヘザーはより厳密にテューリンゲン族説を支持している。テューリンゲン族はゲルマン人の一派であった。 スキリア族は、近隣のゴート族やゲピド族、スエビ族などと旧フン帝国地域の主導権を争った。ハンガリーのバコドプスタにある3つの墳墓は、スキリア族のものであるとされている。サールヴィーズ近くの沼地からは壮麗な宝物が発見されており、エデコのものであるとされている。 ヨルダネスによれば、スキリア族は東ゴート族と同盟していたが、スエビ族のフニムンドにそそのかされて同盟を破棄した。460年代、スキリア族と東ゴート族はそれぞれに東ローマ帝国との同盟を求めた。皇帝レオ1世は、将軍アスパルの助言に反してスキリア族との同盟を選んだ。468/469年、スキリア族は東ゴート族に奇襲をかけた。彼らは東ゴート族の王の一人ウァラメールを戦死させたものの、戦争には敗れた。ウァラメールのあとを継いだティウディミールは、逆にスキリア族へ攻勢をかけた。スキリア族側にはスエビ族、ヘルール族、サルマタイ人が味方についたが、ボリア川の戦いでティウディミール率いる東ゴート族はスキリア族、ヘルール族、スエビ族、サルマタイ人、ゲピド族、ルギイ族などからなる親ローマ部族の包囲網を打ち破った。ヨルダネスは、この東ゴート族との戦いでスキリア族が大打撃をこうむったと伝えている。
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独立王国
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アラカンの口承や寺院の碑文を基にするならば、ラカイン州の歴史は相当古い時代にまで遡ることが出来る。ラカイン族(英語版)は自身の民族史を紀元前3325年まで遡って、1785年の最後の支配者に至るまでの227人のアラカン王国の君主を明らかにしている。彼らはその領土、すなわちアヴァ(英語版), イラワジ・デルタ(英語版), en:Thanlyin (シリアム)の港町、ベンガル東部(ラカイン族と近縁のマルマ族(英語版)が居住するチッタゴン丘陵地帯)、も描いている。しかし、歴代のアラカン王国の領土が、既知の特定な歴史的ドキュメントによる正確な確証が与えられているわけではない。 ラカイン族の伝説によれば、最初に記録された王朝は北部の町ダニヤワディー(英語版)周辺を中心として紀元前34世紀から紀元前327年まで続いたとされている。ラカイン族の書物と碑文が伝えるところによれば、有名なマハムニ仏(英語版)が作られたのは紀元前554年のことで、その時ブッダが王国を訪れたとされている。 紀元4世紀にダニヤワディーが衰亡すると、権力の中心はワイタリの町を拠点とする二番目の新王朝に移った。この時期こそ、それ以前より多くの考古学的遺物が残っているワイタリ期と、ラカインの文化・建築・仏教の古典時期とが一致するのである。ワイタリ王朝の権力の衰退とともに、三番目の新王朝はレイムロ(英語版)川沿いの4つの町に出現し、レイムロ王朝期を迎え、4つの主要都市は順番に首都の役割を果たした。 1429年、ミン・ソー・モン(英語版)が最後の王朝を樹立し、1430年にミャウウーを拠点にした。ラカイン族は、大航海時代をラカイン族の黄金時代と看做しており、ミャウウーが商業港として重要な位置を占めるようになると、アラビアやヨーロッパとの広範囲な海運に組み込まれた。1666年、ムガル帝国にチッタゴンを奪われると、17世紀を通じて、衰退を続けた。内乱・暴動や王の追放が非常に一般的であった。彼らがアジアで覇を唱えた時代の間、ヨーロッパから来航したポルトガル人がアラカンに一時的施設を得た。
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