東ローマ帝国との同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 23:50 UTC 版)
アヴァールが歴史上に現れるのは558年のことで、時に東ローマ帝国ではユスティニアヌス1世(在位:518年 - 565年)の治世であった。 アヴァールは突厥に追われて北カフカスに姿を現し、アラン人の仲介で東ローマ帝国と同盟関係を結んだ。 561年、アヴァールはドナウ川下流域に達し、西進しつつ周辺のウティグル,クトリグル,サビルなどの諸族、およびベッサラビアのアントを服属させた。さらにアヴァールはドナウ川を渡り、ドブルジャに定住したいと東ローマ帝国に要求したが、帝国に無視されてしまう。一方でアヴァールはフランク人のメロヴィング朝とも接触しており、562年のアウストラシア王ジギベルト1世(英語版)との戦い(テューリンゲンの会戦)で敗北したが、中部ヨーロッパで着々と地盤を築いていった。 567年、アヴァールはゲルマン系のランゴバルド人と組み、ダキアとトランシルヴァニア、東パンノニアに割拠していたゲルマン系のゲピド族を滅ぼし、その地を奪った(アヴァール可汗国の建国)。翌年(568年)、ランゴバルドがイタリア半島に向かいランゴバルド王国を建国すると、アヴァールはそれに代わってハンガリー平原全域を支配した。ここにおいてアヴァールの勢力範囲は、ティサ川流域を中心にボヘミアからドナウ川流域を経て南ロシアにおよぶ広大なものとなった。この年、突厥可汗国の室点蜜(Stembis)の使者がコンスタンティノープルに現れ、東ローマ帝国と対ペルシア同盟を組み友好関係を結んだ。 東ローマ帝国ではユスティニアヌス1世が死去し、ユスティヌス2世(在位:565年 - 578年)が即位していた。ユスティヌス2世はアヴァールに対して強硬姿勢を執り、アヴァールの使節に対して貢納の支払いを拒否したが、アヴァールの指導者バヤン・カガン(英語版)の怒りを買い、バルカン半島の要衝であるサヴァ川沿いの要塞シルミウムを陥落寸前までに追い込まれた。これによって、ユスティヌス2世は574年にアヴァールへの貢納を再開することとなる。 東ローマ帝国と突厥可汗国は568年以来、使節を往来させていたが、ふたたび東ローマがアヴァールと同盟を組んだことで両者の関係が一気に崩れ、576年に突厥は東ローマの使節を非難するとともに(突厥はかつて自分たちが打ち破ったアヴァール人と同盟を結んだことに不信感を抱いた)クリミア半島の東ローマ領を征服した。
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