東ローマ帝国での活動
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「ルジェ・ダ・フロー」の記事における「東ローマ帝国での活動」の解説
東ローマ帝国のアンドロニコス2世パレオロゴスはオスマン1世率いるオスマン帝国軍による包囲に直面していた。さらにはイスラーム部族が東ローマ帝国軍を破って首都コンスタンティノープルに迫っており、東ローマ帝国領土の大半が荒らされていた。アンドロニコス2世はヨーロッパ国家からの支援を求めており、ルジェ・ダ・フローと彼が率いるアルモガバルスに傭兵軍の派遣を要請した。1302年9月、クンパニーア・カタラーナ・ドゥリエン(英語版)(カタルーニャ会社、カタルーニャ傭兵団)となっていたルジェ・ダ・フローの艦隊はコンスタンティノープルに到着した。ルジェ・ダ・フローは東ローマ帝国皇室に採用され、皇帝の姪であるマリア・アセニナ(ブルガリア王イヴァン・アセン2世の娘)と結婚した。さらには東ローマ帝国の大公爵位を与えられ、軍隊と艦隊の最高司令官の地位を与えられた。 ルジェ・ダ・フローはシチリア王の支援も得て、1,500人の騎兵、4,000人の軽歩兵(アルモガバルス)で軍隊を構成して遠征を準備。1303年夏にイタリア半島南部のメッシーナを離れ、コンスタンティノープルでは住民に快く受け入れられた。1304年初には黒海の北方からやってきたスキタイやアラン人の騎兵団とカタルーニャ人傭兵軍団との間で戦闘が起こり、この戦いでアラン人の首長が戦死したことから、アラン人はルジェ・ダ・フローに復讐を誓った。ルジェ・ダ・フローはカタルーニャ人傭兵団や東ローマ帝国軍の精鋭を連れ、トルコ人に脅かされていた小アジア(アナトリア)のフィラデルフィアの防衛に向かった。彼らはアウラックスでトルコ人に勝利し、この都市は解放された。部隊は路程を西に向け、いくつかの要塞やニフ(英語版)、ニッサ、マグネシア(英語版)などの都市を奪った。彼らには多くの敵がいたものの、ルジェ・ダ・フローとその軍団の名声は高まり、ティラニム(ティラ)を奪う新たな作戦に乗り出した。 クンパニーア・カタラーナ・ドゥリエンはアネアで軍法会議を開き、東に向かうことを決定した。1304年8月15日にはトロス山脈の麓でトルコ人と激しい戦いを繰り広げた。彼らが戻った際には、マグネシアの東ローマ帝国人統治者がカタルーニャ人駐屯地に対して反乱を起こし、カタルーニャ人を殺害したほかに財宝を略奪していたことが判明した。ルジェ・ダ・フローはマグネシアを包囲したが、ルジェ・ダ・フローの軍隊は撃退されたため、引退を余儀なくされた。ルジェ・ダ・フローはやがてヨーロッパに呼び戻され、軍隊をガリポリや他の町に置き、アルモガバルスに対する支払いを要求するためにコンスタンティノープルを訪れた。
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