東ローマ帝国とさまざまな支配者たち
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「レッジョ・ディ・カラブリア」の記事における「東ローマ帝国とさまざまな支配者たち」の解説
西ローマ帝国の崩壊後、5世紀から6世紀にかけて、ヴァンダル族、ランゴバルド人、ゴート族がこの地に侵入した。536年以後東ローマ帝国の支配下にはいり、「南イタリアにおける東ローマ帝国領」の首府となった。またこの土地は、ときにカラブリア侯に与えられてその首府となり、またイタリアにおける東方教会の中心地となり、8世紀には主教が置かれた。ビザンチン文化の中心地であったことに由来して、1081年に教皇グレゴリウス7世はカトリックの当地の司教にビザンチン典礼 (Byzantine Rite) を認めた。以後16世紀まで、イタリアでビザンチン典礼を行う最も重要な司教区であった。 中世初期には、レッジョが重要な戦略的位置を占めるために、ほかにも多くの占領者が当地を支配した。9世紀後半、イスラム教徒のMofareg-ibn-Salem は南イタリアの沿岸部を占領して自治的なスルタン領を建国したが、その最盛期に勢力はバーリからレッジョにまで及んだ 。918年にもイスラム教徒がレッジョを占領し、住民が奴隷とされた。 10世紀から11世紀にかけて短期間ながらこの土地を支配したアラブ人は、この町を Rivàh と呼び、シチリア首長国 (Emirate of Sicily) の領土とした。
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