東ローマ帝国との関係
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「ペーローズ1世」の記事における「東ローマ帝国との関係」の解説
ペーローズ1世の治世の初期にサーサーン朝と東ローマ帝国の間の緊張が高まりを見せ始めた。460年代中頃に東ローマ帝国は将軍のアルダブリウスがサーサーン朝の宮廷と密かに連絡を取り、軍事支援と恐らくは情報提供を約束するとともにペーローズ1世に東ローマ帝国を攻撃するよう促しているという情報をつかんだ。アルダブリウスの複数の書簡が押収されて東ローマ皇帝レオ1世(在位:457年 - 474年)の手元に渡り、レオ1世はアルダブリウスを解任するとともに首都のコンスタンティノープルに召喚した。ただし、召還後のアルダブリウスがどのような処分を受けたのかは不明である。レオ1世はこのようなサーサーン朝の動きに対してシリアのカリニクムの要塞を含む国境地帯の防備を強化することで応じた。 387年にサーサーン朝とローマ帝国の間で結ばれたアキリセネの和約(英語版)以来、双方の帝国は北方の草原地帯から侵入する遊牧民の攻撃に対し、共同でコーカサス地方の防衛に対処する義務を負うことで合意していた。これらの攻撃への対処はサーサーン朝側が中心的な役割を担い、一方の東ローマ帝国は不定期におよそ500ポンド(230キログラム)の金を拠出していた。東ローマ帝国はこの支出を共同防衛のための協力金とみなしていたが、サーサーン朝はこれを東ローマ帝国のサーサーン朝への従属を示す貢納金とみなしていた。サーサーン朝の統治者たちは建国以来、特に東ローマ帝国から貢納金を支払わせることで領土の支配権と権力を誇示してきた。レオ1世はサーサーン朝とアルダブリウスの企てへの報復として金の拠出を停止した。その後は交渉が繰り返されたものの、問題の解決には至らなかった。さらに東ローマ帝国は363年の条約でサーサーン朝へ割譲されていたニシビス(英語版)の返還を訴えた。このような高い緊張状態は474年にゼノン(在位:474年 - 475年、476年 - 491年)が東ローマ皇帝に即位するまで続いた。ゼノンはサーサーン朝への拠出を再開し、エフタルの捕虜となっていたペーローズ1世を身代金を支払って解放した(後述)。それにもかかわらず、480年代前半には二年にわたる干ばつに苦しんでいたサーサーン朝の庇護下のアラブ部族であるタイイ族(英語版)の一部が東ローマ帝国の領内を襲撃したことで戦争が起こりかけた。しかし、国境地帯に駐屯していたサーサーン朝の将軍のカルダグ・ナコラガンがすぐにタイイ族の襲撃を鎮圧し、東ローマ帝国との間の平和を維持した。
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東ローマ帝国との関係
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「アンテミウス」の記事における「東ローマ帝国との関係」の解説
アンテミウス帝の治世は東ローマ宮廷との良好な関係に特徴づけられ、例えば東ローマの法令はアンテミウス帝を最後の西ローマ皇帝であると記録している。 東西両宮廷は毎年の執政官選出で共調を行い、2名の執政官のうち1名は相手方宮廷の指名した者を受け入れた。468年の即位初年は皇帝が執政官になる慣例に従い、アンテミウス帝が栄誉ある単独執政官(sine collega )を務め(東ローマ皇帝レオ1世も466年に同様の単独執政官に就任している)。翌469年の執政官は1名がアンテミウス帝の皇子マルキアン(英語版)が務め、もう1名にはレオ1世の義理の息子のフラウィウス・ゼノンが就任した。 470年はアンテミウス帝と同門で旧友のセウェルスと東方軍区長官(Magister militum per Orientem)のヨルダネスが執政官となった。471年はレオ1世がイタリア民政総督(英語版)のプロビアヌゥス(英語版)を同僚とする四度目の執政官に就任している。この年に両皇帝は婚姻でも紐帯を強め、アンテミウス帝の皇子マルキアンとレオ1世の皇女レオンティア(英語版)が結婚した。翌472年に皇子マルキアンは二度目の執政官に選ばれ、この時は東宮廷の指名によるものであった。 アンテミウス帝の婚姻政策には唯一の娘アリピア(英語版)と西帝国における有力者である軍務長官リキメルとの結婚も含まれていた。467年末にローマへ到着していた詩人シドニウス・アポリナリスは全ての社会階層がこの結婚を祝福していたと述べているが、彼はまた新婦のアリピアが夫となった蛮族出身のリキメルを好んではいなかったともほのめかしている。
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東ローマ帝国との関係
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「ヤズデギルド1世」の記事における「東ローマ帝国との関係」の解説
ヤズデギルド1世の治世中、西方に位置する東西のローマ帝国は混乱の中にあった。東ゴート族がバルカン半島を襲撃し、フランク族が反乱を起こしていた。そして帝国内は内戦に見舞われ、東方の属州では暴動が起きていた。ヤズデギルド1世はこのような状況下で弱体化していた隣国の東ローマ帝国に付け入ることはせず、フン族に対するペルシア人の勝利後に救助されたキリスト教徒の捕虜をローマの領内へ帰した。東ローマ皇帝アルカディウス(在位:383年 - 408年)は、ヤズデギルド1世がこのような寛大な処置を見せたことで、幼い息子のテオドシウス(後のテオドシウス2世、在位:408年 - 450年)の継承を確保するためにヤズデギルド1世に後見を求めた。 この説明は6世紀の東ローマ帝国の歴史家であるプロコピオス(562年以降没)が言及しているのみであり、プロコピオスとは同時代の歴史家のアガティアス(582年頃没)は疑問を呈し、プロコピオスは「ローマ人の平民や貴族が同じように口々に」していたと報告しているが、当時の史料にそのような記録は存在しなかったと記している。一方でプロコピオスによれば、ヤズデギルド1世は東ローマ帝国の元老院に書簡を送り、テオドシウスの保護者として行動することを受け入れ、テオドシウスを危険にさらそうとする者には誰に対しても戦争を起こすと脅した。そして「アルカディウスの要請に忠実に応えたヤズデギルドはローマ人に対する徹底した平和的な政策を途切れることなく継続して採用し、テオドシウスのために帝国を守った」と記している。ヤズデギルド1世はテオドシウスの教育のために、「最も優れ、高度な教育を受けた助言者であり指導者」であるアンティオコス(英語版)を派遣した。
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