東ローマ帝国との関係とは? わかりやすく解説

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東ローマ帝国との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 00:05 UTC 版)

ペーローズ1世」の記事における「東ローマ帝国との関係」の解説

ペーローズ1世治世の初期サーサーン朝と東ローマ帝国の間の緊張高まり見せ始めた460年代中頃東ローマ帝国将軍のアルダブリウスがサーサーン朝宮廷密かに連絡取り軍事支援恐らくは情報提供約束するとともにペーローズ1世東ローマ帝国攻撃するよう促しているという情報つかんだ。アルダブリウスの複数書簡押収され東ローマ皇帝レオ1世在位457年 - 474年の手元に渡りレオ1世はアルダブリウスを解任するとともに首都コンスタンティノープル召喚した。ただし、召還後のアルダブリウスがどのような処分受けたのかは不明である。レオ1世このようなサーサーン朝動きに対してシリアのカリニクムの要塞を含む国境地帯防備強化することで応じた387年サーサーン朝ローマ帝国の間で結ばれたアキリセネの和約英語版以来双方帝国北方草原地帯から侵入する遊牧民攻撃対し共同コーカサス地方防衛対処する義務を負うことで合意していた。これらの攻撃への対処サーサーン朝側が中心的な役割担い一方東ローマ帝国不定期におよそ500ポンド230キログラム)の金を拠出していた。東ローマ帝国はこの支出共同防衛のための協力金みなしていたが、サーサーン朝はこれを東ローマ帝国サーサーン朝への従属を示す貢納金とみなしていた。サーサーン朝統治者たちは建国以来、特に東ローマ帝国から貢納金を支払わせることで領土支配権権力誇示してきた。レオ1世サーサーン朝とアルダブリウスの企てへの報復として金の拠出停止したその後交渉繰り返されたものの、問題解決には至らなかった。さらに東ローマ帝国363年条約サーサーン朝割譲されていたニシビス(英語版)の返還訴えたこのような高い緊張状態474年ゼノン在位474年 - 475年476年 - 491年)が東ローマ皇帝即位するまで続いたゼノンサーサーン朝への拠出再開しエフタル捕虜となっていたペーローズ1世身代金支払って解放した後述)。それにもかかわらず480年代前半には二年にわたる干ばつ苦しんでいたサーサーン朝庇護下のアラブ部族であるタイイ族(英語版)の一部東ローマ帝国領内襲撃したことで戦争起こりかけた。しかし、国境地帯駐屯していたサーサーン朝将軍のカルダグ・ナコラガンがすぐにタイイ族の襲撃鎮圧し東ローマ帝国との間の平和を維持した

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東ローマ帝国との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/20 23:21 UTC 版)

アンテミウス」の記事における「東ローマ帝国との関係」の解説

アンテミウス帝治世東ローマ宮廷との良好な関係に特徴づけられ、例え東ローマ法令アンテミウス帝最後西ローマ皇帝であると記録している。 東西両宮廷は毎年執政官選出で共調を行い、2名の執政官のうち1名は相手方宮廷指名した者を受け入れた468年即位初年皇帝執政官になる慣例従いアンテミウス帝栄誉ある単独執政官sine collega )を務め東ローマ皇帝レオ1世466年同様の単独執政官就任している)。翌469年執政官は1名がアンテミウス帝皇子マルキアン(英語版)が務め、もう1名にはレオ1世義理の息子のフラウィウス・ゼノンが就任した470年アンテミウス帝同門旧友セウェルス東方軍区長官Magister militum per Orientem)のヨルダネス執政官となった471年レオ1世イタリア民政総督英語版)のプロビアヌゥス(英語版)を同僚とする四度目の執政官就任している。この年に両皇帝婚姻でも紐帯強めアンテミウス帝皇子マルキアンとレオ1世皇女レオンティア(英語版)が結婚した。翌472年皇子マルキアンは二度目の執政官選ばれ、この時は東宮廷の指名よるものであったアンテミウス帝婚姻政策には唯一の娘アリピア(英語版)と西帝国における有力者である軍務長官リキメルとの結婚含まれていた。467年末にローマへ到着していた詩人シドニウス・アポリナリス全ての社会階層がこの結婚祝福していたと述べているが、彼はまた新婦のアリピアが夫となった蛮族出身リキメル好んではいなかったともほのめかしている。

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東ローマ帝国との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 00:07 UTC 版)

ヤズデギルド1世」の記事における「東ローマ帝国との関係」の解説

ヤズデギルド1世治世中、西方位置する東西ローマ帝国混乱中にあった。東ゴート族バルカン半島襲撃しフランク族反乱起こしていた。そして帝国内は内戦見舞われ東方属州では暴動起きていた。ヤズデギルド1世このような状況下で弱体化していた隣国東ローマ帝国に付け入ることはせず、フン族対すペルシア人勝利後に救助されキリスト教徒捕虜ローマ領内帰した東ローマ皇帝アルカディウス在位383年 - 408年)は、ヤズデギルド1世このような寛大な処置見せたことで、幼い息子テオドシウス(後のテオドシウス2世在位408年 - 450年)の継承確保するためにヤズデギルド1世後見求めた。 この説明6世紀東ローマ帝国歴史家であるプロコピオス562年以降没)が言及しているのみであり、プロコピオスとは同時代歴史家アガティアス582年頃没)は疑問呈しプロコピオスは「ローマ人平民貴族同じよう口々に」していたと報告しているが、当時史料そのような記録存在しなかったと記している。一方でプロコピオスによればヤズデギルド1世東ローマ帝国元老院書簡送りテオドシウス保護者として行動することを受け入れテオドシウス危険にさらそうとする者には誰に対して戦争起こす脅した。そして「アルカディウス要請忠実に応えたヤズデギルドローマ人対す徹底した平和的な政策途切れることなく継続して採用しテオドシウスのために帝国守った」と記している。ヤズデギルド1世テオドシウス教育のために、「最も優れ、高度な教育受けた助言者であり指導者」であるアンティオコス英語版)を派遣した

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