東ローマ帝国によるギリシャ再征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 06:18 UTC 版)
「東ローマ帝国支配下のギリシャ」の記事における「東ローマ帝国によるギリシャ再征服」の解説
東ローマ帝国はギリシャを取り戻すべく、またスラヴ人の捕虜を得るべく幾度かスクラヴィニアに遠征を行い、ギリシャを再征服していった。ニケフォロス1世治下ではテマ・マケドニア、テマ・ヘラス、テマ・テッサロニキ、テマ・ペロポネソスが設置されており、ギリシャ人の再移住とスラヴ人のギリシャ化が進んだ。土地の再開発も進み、トラキアやテッサリアの平原では小麦が生産され、テーバイでは織物の工場が建てられ、それら生産物が税としてコンスタンティノープルに納められるようになった。だが、東ローマ帝国の支配は、アテネの主教が「一体あなた方に何の不足があるのか。テーバイの絹織物ではあるまい、テッサリアやマケドニアでとれた小麦でもあるまい。それはみな我々が作ったものだ。だが、すべての物はコンスタンティノープルに流れて行ってしまう。」と嘆くほどの重税による圧政に苦しめられた。そのため884年にコルフ島がノルマン人に占領された時や後の十字軍の侵入時、現地の市民は侵入者たちをコンスタンティノープルの中央政府からの圧政からの解放者として歓迎した。
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