東ローマ帝国との戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 00:10 UTC 版)
「バハラーム5世」の記事における「東ローマ帝国との戦争」の解説
詳細は「東ローマ・サーサーン戦争 (421年-422年)(英語版)」を参照 ゾロアスター教の神官団の要請を受け、バハラーム5世はキリスト教徒がゾロアスター教の寺院を攻撃したことに対する報復として、キリスト教徒への組織的な迫害を行うことから統治を開始した。バハラーム5世は多くの犠牲者を出す中で迫害を続け、この時の犠牲者の中にはヤズデギルド1世の家臣であったヤコボス・インテルキスス(こま切れの聖ヤコボス)もいた。彼はキリスト教からゾロアスター教へ改宗したが、その後に再びキリスト教に改宗していた。 迫害されたキリスト教徒は東ローマ帝国の領土に逃れ、コンスタンティノープル大主教のアッティコスから歓迎を受けるとともに、アッティコスは皇帝に迫害について報告した。当時、東ローマ皇帝テオドシウス2世は宗教面で姉のアエリア・プルケリア(英語版)から深い影響を受け、キリスト教に大きな関心を寄せるようになっていた。また、サーサーン朝と東ローマ帝国の関係にはすでにいくつかの軋轢となる要因が存在した。サーサーン朝の人々はローマ人の金の採掘者を雇っていたが、今では送り返すことを拒否していた。さらに彼らはローマ人商人の財産の押収も行っていた。このため、サーサーン朝の大使が亡命者の送還を求めて宮廷に到着したとき、テオドシウスは亡命者を送還するのではなく、和平を破り宣戦を布告することを選んだ。 421年、東ローマ帝国はアルメニアに向けて大規模な分遣隊とともに軍司令官のアルダブリウス(英語版)を派遣した。アルダブリウスはサーサーン朝の指揮官ナルセを破り、アルザネネ(英語版)地方の略奪を続け、ニシビス(英語版)を包囲した。しかしアルダブリウスはバハラーム5世の指揮するペルシア軍の進軍を前にして包囲を解き、その後にバハラーム5世はテオドシオポリス(おそらくはオスロエネ(英語版)に存在したテオドシオポリス)を包囲した。 422年に東ローマ帝国の行政長官(magister officiorum)ヘリオの交渉によって戦争を終結させる平和条約が締結され、すべてを戦争前の原状に戻すことで合意した。さらにサーサーン朝と東ローマ帝国は他の地域のアラブ人の亡命者の受け入れを拒否することに同意し、双方の領土において信仰の自由を保証することにも同意した。
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