内乱の鎮圧とは? わかりやすく解説

内乱の鎮圧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 18:39 UTC 版)

マンスール」の記事における「内乱の鎮圧」の解説

アブー・ジャアファルの叔父アブドゥッラー・イブン・アリーシリア北部東ローマ帝国との戦争準備進めていたが、女奴の子であるマンスール即位反対し、カリフ自称したアブドゥッラーシリアメソポタミア方面軍隊掌握しており、マンスールホラーサーン軍を率いアブー・ムスリムの力を頼らなければならなかった。アブー・ムスリムは数か月の間メソポタミア各地反乱軍戦い754年11月モースル北方のヌサイビーン(ニシビス)(英語版)の戦いで勝利を収めアブドゥッラーバスラ追いやった。アブドゥッラー7年間を獄中過ごした後、マンスールが塩の土台建てた家の中入れられ崩れた家屋潰され圧死した伝えられている。『カリーラとディムナ』の翻訳携わったイブン・アル=ムカッファマンスールによって処刑されるが、処刑一因にはムカッファがアブドゥッラー仕えていた過去があったためだと考えられている。 アブドゥッラー失脚した後、マンスールホラーサーン治めアブー・ムスリム最大脅威認識していた。戦利品5分の1カリフ送り残り先頭参加した兵士平等に分配することがイスラーム世界慣例となっていたが、マンスールは本来戦利品分配を行うべきアブー・ムスリム戦利品明け渡すように命令しアブー・ムスリムマンスール指示に不満を抱いた反乱鎮圧したアブー・ムスリム領地ホラーサーン帰ろうとするが、マンスール使者遣わしてアブー・ムスリム留め置いた一説によれば交渉の中でマンスールアブー・ムスリムホラーサーン引き換えにシリア・エジプト総督地位与えようとしたが、アブー・ムスリム提案応じ領地帰還しようとしたと言われている。根負けしアブー・ムスリムやむなくマンスールの元を訪れマンスール天幕入ったアブー・ムスリム労いの言葉をかけ、休息取って翌日再び自分の元を訪れるように命じた翌日面会前にマンスールアブー・ムスリムのもとに出迎え使者送り天幕武器持った兵士を潜ませて暗殺準備進める。天幕の中でマンスールアブー・ムスリムの剣を取り上げ、彼がこれまで犯した罪を弾劾しアブー・ムスリム釈明聞くとより怒り募らせた。アブー・ムスリム敵対者との戦いのために自分生かしておくよう嘆願したが、マンスールアブー・ムスリムこそが最大の敵だと答え陰に忍ばせていた従者によってアブー・ムスリム殺害させた。 アブー・ムスリム訃報届けられホラーサーンには大きな衝撃走り復讐のための蜂起起きたペルシャ人のスンバーズ(スンバード)を指導者とする反乱軍イラク西進したが、ハマダーンレイの間でマンスール派遣した討伐隊撃破される。しかし、討伐隊司令官ジャフワル・ブン・マッラールはホラーサーン蓄えられていた富を見て変心し、マンスールに対して反乱起こした。ジャフワルを撃ち、ようやく東方安定もたらされた。ジャフワルの反乱同時期、ジャズィーラ地方反乱起こしたハワーリジュ派のムラッビド・ブン・ハルマラがマンスール派遣した軍に勝利を収めており、756年将軍ハーズィム・ブン・フザイマの活躍によって反乱の鎮圧成功するホラーサーンジャズィーラでの動乱前後アナトリア方面では東ローマ帝国侵入撃退成功し7年和約結んだ。しばしば東ローマからの侵攻晒される国境地帯には、防衛のために多く要塞建設される756年/57年、マンスール将軍ハサン・ブン・カフタバと甥のアブド・アル=ワッハーブ東ローマ軍攻撃によって破壊されマラトヤマラティヤ)の再建命じる。アブド・アル=ワッハーブ私費投じて工事参加する労働者食事振舞ハサン不快に思いマンスール彼の行動訴え出たマンスールはアブド・アル=ワッハーブの心の狭さ咎めハサンには労働者供応続けるよう励ました書状送った再建されマラトヤには駐屯部隊と彼らに割り当てられ農地置かれ、後にマラトヤ攻撃試みた東ローマ皇帝コンスタンティノス5世マラトヤ兵力多さ知って撤退する758年4月マンスールメッカ巡礼発ちエルサレム経由してシリア巡幸した後、ハーシミーヤに帰国した。しかし、マンスール帰国してみるとハーシミーヤではアッバース家支持するラーワンド派の信奉者がハーシミーヤのマンスール宮殿周り歩き回り、ここが神の住居であると騒ぎ立てる事件起きていた。ラーワンド派はインド輪廻思想の影響を受け、自分たちに食料与えマンスールは神の生まれ変わりだと考えていた。彼らの行動不快に思ったマンスールはおよそ200人を投獄したが、残ったラーワンド派の人間激高し、牢内の仲間救いだした後、宮殿殺到したマンスール護衛とともに戦ったが数の上では劣勢であり、戦闘の中で突然現れ覆面の人物の奮戦によってマンスールは難を脱することができた。戦闘終えたマンスール覆面の男正体訪ね、男は自分アッバース朝探索から逃れていたウマイヤ朝将軍マアン・ブン・ザーイダであることを明かしたマンスールはザーイダの功績評価して彼をヤマンイエメン)の総督任じ、ザーイダは任地統治大きな功績挙げたまた、この時宮殿の門に馬が繋がれていなかったため、マンスールラバ乗って戦わなければならなかった。この事件以後マンスール宮殿入り口常時馬を繋ぎとめるようになり、救難馬の制度は後のカリフや他のイスラーム国家支配者にも受け継がれた。 759年西方タバリスターンギーラーンアッバース朝支配下組み込まれカスピ海沿岸部ダイラムからの侵入撃退する762年グルジア侵入したハザール破りマー・ワラー・アンナフルインドへの進出試みたが、領土拡大成果上げられなかった。マンスール派遣した軍隊によってカンダハール仏像破壊されアッバース軍はカシミール到達した北アフリカウマイヤ家残党拠るイベリア半島にはマンスール権威及んでいなかった。マグリブでは平等主義標榜するイバード派信奉するベルベル人が、アッバース朝支配頑強な抵抗示していた。758年バスラアブル=ハッターブがタラーブルストリポリ)南のナフーサ山地ベルベル人率いて反乱起こしカイラワーンケルアン)を占領する762年ホラーサーン軍によってアブル=ハッターブの反乱鎮圧されるが、反乱参加者であるイブン・ルスタムはアルジェリア西部ティアレット逃れてルスタム朝建国した。また、771年にはアブル=ハッターブの後継者であるアブー・ハーティムがイバード派ハワーリジュ派率いてアッバース朝支配対す蜂起指導した

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