内乱の鎮圧
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アブー・ジャアファルの叔父アブドゥッラー・イブン・アリーはシリア北部で東ローマ帝国との戦争の準備を進めていたが、女奴隷の子であるマンスールの即位に反対し、カリフを自称した。アブドゥッラーはシリア、メソポタミア方面の軍隊を掌握しており、マンスールはホラーサーン軍を率いるアブー・ムスリムの力を頼らなければならなかった。アブー・ムスリムは数か月の間メソポタミア各地で反乱軍と戦い、754年11月にモースル北方のヌサイビーン(ニシビス)(英語版)の戦いで勝利を収め、アブドゥッラーをバスラに追いやった。アブドゥッラーは7年間を獄中で過ごした後、マンスールが塩の土台に建てた家の中に入れられ、崩れた家屋に潰されて圧死したと伝えられている。『カリーラとディムナ』の翻訳に携わったイブン・アル=ムカッファはマンスールによって処刑されるが、処刑の一因にはムカッファがアブドゥッラーに仕えていた過去があったためだと考えられている。 アブドゥッラーが失脚した後、マンスールはホラーサーンを治めるアブー・ムスリムを最大の脅威と認識していた。戦利品の5分の1をカリフに送り、残りを先頭に参加した兵士に平等に分配することがイスラーム世界の慣例となっていたが、マンスールは本来戦利品の分配を行うべきアブー・ムスリムに戦利品を明け渡すように命令し、アブー・ムスリムはマンスールの指示に不満を抱いた。反乱を鎮圧したアブー・ムスリムは領地のホラーサーンに帰ろうとするが、マンスールは使者を遣わしてアブー・ムスリムを留め置いた。一説によれば、交渉の中でマンスールはアブー・ムスリムにホラーサーンと引き換えにシリア・エジプト総督の地位を与えようとしたが、アブー・ムスリムは提案に応じず領地に帰還しようとしたと言われている。根負けしたアブー・ムスリムはやむなくマンスールの元を訪れ、マンスールは天幕に入ったアブー・ムスリムに労いの言葉をかけ、休息を取って翌日再び自分の元を訪れるように命じた。翌日、面会の前にマンスールはアブー・ムスリムのもとに出迎えの使者を送り、天幕に武器を持った兵士を潜ませて暗殺の準備を進める。天幕の中でマンスールはアブー・ムスリムの剣を取り上げ、彼がこれまで犯した罪を弾劾し、アブー・ムスリムの釈明を聞くとより怒りを募らせた。アブー・ムスリムは敵対者との戦いのために自分を生かしておくよう嘆願したが、マンスールはアブー・ムスリムこそが最大の敵だと答え、陰に忍ばせていた従者によってアブー・ムスリムを殺害させた。 アブー・ムスリムの訃報が届けられたホラーサーンには大きな衝撃が走り、復讐のための蜂起が起きた。ペルシャ人のスンバーズ(スンバード)を指導者とする反乱軍はイラクに西進したが、ハマダーンとレイの間でマンスールが派遣した討伐隊に撃破される。しかし、討伐隊の司令官ジャフワル・ブン・マッラールはホラーサーンに蓄えられていた富を見て変心し、マンスールに対して反乱を起こした。ジャフワルを撃ち、ようやく東方に安定がもたらされた。ジャフワルの反乱と同時期、ジャズィーラ地方で反乱を起こしたハワーリジュ派のムラッビド・ブン・ハルマラがマンスールの派遣した軍に勝利を収めており、756年に将軍ハーズィム・ブン・フザイマの活躍によって反乱の鎮圧に成功する。 ホラーサーン、ジャズィーラでの動乱の前後にアナトリア方面では東ローマ帝国の侵入の撃退に成功し、7年の和約を結んだ。しばしば東ローマからの侵攻に晒される国境地帯には、防衛のために多くの要塞が建設される。756年/57年、マンスールは将軍ハサン・ブン・カフタバと甥のアブド・アル=ワッハーブに東ローマ軍の攻撃によって破壊されたマラトヤ(マラティヤ)の再建を命じる。アブド・アル=ワッハーブは私費を投じて工事に参加する労働者に食事を振舞うハサンを不快に思い、マンスールに彼の行動を訴え出た。マンスールはアブド・アル=ワッハーブの心の狭さを咎め、ハサンには労働者の供応を続けるよう励ました書状を送った。再建されたマラトヤには駐屯部隊と彼らに割り当てられた農地が置かれ、後にマラトヤの攻撃を試みた東ローマ皇帝コンスタンティノス5世はマラトヤの兵力の多さを知って撤退する。 758年4月にマンスールはメッカ巡礼に発ち、エルサレムを経由してシリアを巡幸した後、ハーシミーヤに帰国した。しかし、マンスールが帰国してみるとハーシミーヤではアッバース家を支持するラーワンド派の信奉者がハーシミーヤのマンスールの宮殿の周りを歩き回り、ここが神の住居であると騒ぎ立てる事件が起きていた。ラーワンド派はインドの輪廻思想の影響を受け、自分たちに食料と水を与えるマンスールは神の生まれ変わりだと考えていた。彼らの行動を不快に思ったマンスールはおよそ200人を投獄したが、残ったラーワンド派の人間は激高し、牢内の仲間を救いだした後、宮殿に殺到した。マンスールは護衛とともに戦ったが数の上では劣勢であり、戦闘の中で突然現れた覆面の人物の奮戦によってマンスールは難を脱することができた。戦闘を終えたマンスールは覆面の男に正体を訪ね、男は自分はアッバース朝の探索から逃れていたウマイヤ朝の将軍マアン・ブン・ザーイダであることを明かした。マンスールはザーイダの功績を評価して彼をヤマン(イエメン)の総督に任じ、ザーイダは任地の統治で大きな功績を挙げた。また、この時宮殿の門に馬が繋がれていなかったため、マンスールはラバに乗って戦わなければならなかった。この事件以後マンスールは宮殿の入り口に常時馬を繋ぎとめるようになり、救難馬の制度は後のカリフや他のイスラーム国家の支配者にも受け継がれた。 759年に西方のタバリスターン、ギーラーンがアッバース朝の支配下に組み込まれ、カスピ海沿岸部のダイラムからの侵入を撃退する。762年にグルジアに侵入したハザールを破り、マー・ワラー・アンナフル、インドへの進出を試みたが、領土拡大の成果は上げられなかった。マンスールが派遣した軍隊によってカンダハールの仏像は破壊され、アッバース軍はカシミールに到達した。 北アフリカ、ウマイヤ家の残党が拠るイベリア半島にはマンスールの権威は及んでいなかった。マグリブでは平等主義を標榜するイバード派を信奉するベルベル人が、アッバース朝の支配に頑強な抵抗を示していた。758年にバスラのアブル=ハッターブがタラーブルス(トリポリ)南のナフーサ山地のベルベル人を率いて反乱を起こし、カイラワーン(ケルアン)を占領する。762年にホラーサーン軍によってアブル=ハッターブの反乱は鎮圧されるが、反乱の参加者であるイブン・ルスタムはアルジェリア西部のティアレットに逃れてルスタム朝を建国した。また、771年にはアブル=ハッターブの後継者であるアブー・ハーティムがイバード派とハワーリジュ派を率いてアッバース朝の支配に対する蜂起を指導した。
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