王朝成立までとは? わかりやすく解説

王朝成立まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 13:51 UTC 版)

陳朝」の記事における「王朝成立まで」の解説

皇族である陳氏祖先福建もしくは桂州からの移住民であり、現在のナムディン省タイビン省一帯根拠地とし、一族漁業水運業生計立てていた。また、漁業水運業傍ら海賊業を行っていた伝承存在する李朝支配下北ベトナムでは12世紀より政腐敗甚だしく天災による飢饉によって民衆窮乏し治安悪化していた。乂安(ゲアン)、清化タインホア)、寧平ニンビン)では民衆反乱起こり各地豪族中にも朝廷反逆する者が現れる1208年乂安反乱鎮圧するために招集した軍隊昇龍反乱ベトナム語版)を起こすと、皇帝高宗李朝皇族昇龍から放逐され反乱の鎮圧陳氏力を借りることになる。1209年陳氏の長であった中国語版)は高宗たちを保護する翌年盗賊討たれ、代わって次男陳嗣慶(チャン・トゥ・カイン) を中心とする陳氏高宗擁して昇龍入城し以降朝廷陳氏勢力台頭してゆくこととなる。 乱の鎮圧中にによって擁立された皇子旵が即位する恵宗)と、陳嗣慶姉妹陳氏中国語版)を恵宗皇后に、恵宗の母である譚氏(中国語版)を太后として、陳氏と譚太后共同統治が行われる。やがて陳嗣慶と譚太后の間に対立起きるが、陳嗣慶恵宗支持得て、譚太后一派との政争勝利し宮廷内での地位確立した内乱の鎮圧にあたって陳嗣慶は兄 の陳承(中国語版)(チャン・トゥア)・従弟陳守度チャン・トゥ・ド)ら一族連携し陳嗣慶死後は殿前指揮使の高位に就いていた陳守度陳氏中心人物となった1224年陳守度恵宗退位させて7歳次女李仏金(リ・パット・キム)を皇帝擁立し昭皇)、恵宗寺院隠棲させた。陳守度8歳従甥の陳煚(チャン・カイン)を昭皇遊び相手とした後、陳煚と昭皇結婚させる1225年昭皇から陳煚への譲位が行われ、陳煚を皇帝太宗)、陳煚の父である陳承を上皇とする陳朝成立する陳朝成立後陳守度旵を隠棲先の寺で自害させ、李朝再興芽を摘むために旵の葬儀集まった李氏一族殺害する とともに李氏女子たちを紅河デルタ周辺部族勢力に嫁がせ、彼らとの修好図った太宗治世初期では陳守度皇帝輔弼して王朝基礎固め李朝末期より発生していた反乱鎮圧された。1237年太宗陳守度進言によって、子のなかった昭聖皇后(仏金)に代えて、兄の陳柳の妻である李氏莹(中国語版)を妊娠中にもかかわらず奪って皇后とした。妻を奪われ陳柳反乱起こし一時太宗安子山に隠遁する事態に至る。結局騒動陳守度によって収拾され、陳守度との抗争敗れた陳柳は安生王として紅河デルタ東端現在のクアンニン省)に封じられた。太宗親政始まった1240年代より官・軍・法の各種制度制定実施され1242年国内12の路に分けて行政区画戸籍整備が行われた。1248年には治水携わる新たな官職として河堤使が設置され、「水源から海に至る」と言われた、総延長200キロメートル にも及ぶ大堤防「鼎耳防」の建設令が出された。

※この「王朝成立まで」の解説は、「陳朝」の解説の一部です。
「王朝成立まで」を含む「陳朝」の記事については、「陳朝」の概要を参照ください。

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