王朝国家出現の前段階
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 02:53 UTC 版)
8世紀初頭に確立した律令制は、個人を徴税単位とする個別人身支配(人別支配)を基本原則としており、高度に体系化された律令法典・官僚制度・地方制度や戸籍・計帳などを基盤として存立していた。特に、古くからの地域における首長層を再編した郡司層の首長権への精神面での服従構造と、経営の安定性を欠く零細百姓層の経営維持を保証する公出挙は、本来古代日本とは異質な社会である唐代中国社会を成立背景とした律令制が、日本で成立する上で重要であった。しかし、早くも8世紀後期頃から百姓の偽籍・浮浪・逃亡が見られ始め、個別人身支配体制にほころびが生じていた。その後、8世紀後期から9世紀を通じて律令制を維持または再構築しようとする試みが繰り返されたが、大多数の貧困百姓層とごく少数の富裕百姓層(富豪層)という百姓層内の階層分離はますます加速していき、貧困層は偽籍・逃亡によって租税負担から逃れ、富豪層は墾田活動を通じて得分収取しうる田地を獲得し、逃亡したり私出挙によって負債を負わせた貧困百姓らを保護民、隷属民として囲い込んでいった。 個別人身支配の基礎となっていたのは戸籍・計帳であったが、上記の状況は、もはや戸籍・計帳による人民支配=租税収取が限界を迎えていたことを示している。また、個別人身支配を受けるべき個々の民は、かつてのように地域首長層の末裔たる郡司の首長権への精神的服従意識によって統率された存在ではなく、生産基盤となる動産を集積し、安定経営を達成した富豪層の保護、隷属関係よって統率された存在に変質を遂げていた。こうした状況を受け、政府は、従前の個別人身支配に代わって租税収取を確保するための新たな支配体制を構築するため、大きな方針転換を迫られていた。 9世紀末~10世紀初年に醍醐天皇及び藤原時平が主導した律令制復活の最後の試みである延喜の治が失敗に終わると、次代の朱雀天皇及び藤原忠平は、個別人身支配を基調とする体制から土地課税基調の体制へと大きな政策転回を行った。朱雀期以降、律令制的人別支配を前提とする班田収授が実施されていないことなどが、この政策転回の存在を示している。個人を課税対象として把握する個別人身支配において、偽籍・逃亡が頻発すると課税対象である個人を把握することはできなくなるが、土地課税原則のもとでは、田地の存在さえ把握していればそこを実質的に経営している富豪層から収取すべき租税を収取することが十分可能となる。こうした考えが、政策方針の転回の背景にあった。
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