王朝国家の再編成とその終期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 02:53 UTC 版)
「王朝国家」の記事における「王朝国家の再編成とその終期」の解説
上記に見た王朝国家体制のあり方に、11世紀中期頃から変質が見られるようになった。この時期の王朝国家の変質を示す指標としては、公田官物率法の制定、別名の積極的な設定、所領相論審判権の太政官への集中化などがある。 1040年代ごろから太政官によって制定され始めた公田官物率法は、一国内の税率を固定化する内容を持っており国司に付与された租税収取権に大きな制限を加えた。国司苛政上訴がこの時期までに消滅したのは、公田官物率法が国司の課税権限を抑制し、郡司・田堵負名層との利害関係が解消されたからだとされている。また11世紀中期頃には、それまでの名田より遥かに大規模な名田=別名(べちみょう)が盛んに設定された。別名は、従来の地方行政組織であった郡・郷とは別個に設定され、そのため国-郡-郷という組織体系は崩れ、国の下に郡・郷・別名のほか、保・条・院などの租税収取単位が同列で併存するようになった。所領相論に係る裁判についても、それまで国・郡に裁判権が認められていたのが、11世紀中期以降は、太政官のみが裁判することとされた。 こうした支配体制を改変する動きは、1040年代を中心とする11世紀中期になって非常に顕著に見られる。これらの動きがどのような性格を持つのかについては、様々な議論があるが、坂本賞三らはこの時期を王朝国家体制の変質期であるとして、同時期以前を前期王朝国家、以降を後期王朝国家と区分し、鎌倉幕府が成立した12世紀末を後期王朝国家の終期においている。 11世紀中期に見られた体制変化・社会変化は、当時徐々に一円化を進め、著しい増加を見せていた荘園に対抗するための国衙側(公領側)の対応策であった。この流れの中で、それまで公田経営請負によって(つまり田堵・負名層となることで)武人としての経済基盤を与えられていたに過ぎなかった武士が、荘園と公領間の武力紛争の対処能力を期待され、国の下部組織である郡、郷、別名、保、条、院の管理者や、一円化してまとまった領域を形成するようになった荘園の管理者としての資格を得て、在地領主としての地位を獲得していった。これらの動きは、中世を通じて社会体制であり続けた荘園公領制の出現を意味するものであり、これと相前後して開始した院政と併せて、11世紀後期には既に中世に入っていたと見ることもできる。そうした立場からは、古代から中世への過渡期に位置づけられるべき王朝国家体制期は、11世紀中期に終わったのだとする見解も出されている。 また一方では、王朝国家と呼ぶべき政治実態は、鎌倉幕府成立後の朝廷にも見られるとして、13世紀の朝廷による支配体制も王朝国家体制期に含める意見もある。
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