変質期
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平安時代の院政期頃から鎌倉時代前期をさす。ただし何からの変質なのかは「成立期」の具体的姿が判明していないので必ずしも明らかではない。むしろその方が完成像という見方もある。
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変質期
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11世紀中葉に、王朝国家体制の変革が行われた。1040年代を画期として、それ以前を前期王朝国家、以降を後期王朝国家と区分する考えがある。この考えによると、後期王朝国家は全国的な租税賦課(一国平均役など)を契機として成立した。それまでは、受領の権限のもとで地方行政が展開しており、郡司・富豪層らが開発してきた荘園も国衙の承認によって存立していた(国免荘)。しかし、内裏の焼亡などを契機とした臨時措置として全国的な租税賦課が実施されると、荘園側は、国衙でなく中央の太政官へ免税の申請を行うようになった。免税特権を獲得した荘園は領域が統合される一円化の措置などを通じて拡大する傾向を示し、国衙が支配する公領を蚕食し始めた。ここに至り、田堵負名層らによる対受領闘争(「凶党」行為)はほとんど見られなくなり、代わって荘園と公領間の相論・武力紛争が頻発し始めた。 国衙軍制は凶党の追捕を対象としていたが、荘園・公領間の紛争において、荘園側は凶党には当たらないこととされたため、国衙軍制をもって荘園・公領間紛争を制圧することはできなかった。そこで受領は荘園への対抗手段として、主に軍事的に対応能力を有する武士身分の田堵負名に公領の経営と治安維持を委任することで、公領の維持を図ったのである。その際、国内の武士身分の田堵負名のうち、同一の郡に基盤を持つ者同士が互いに競合しあったため、従来郡の下にあった郷などの領域を郡と同等の国衙統治下の単位に引き上げる措置がとられ、競合する武士が対等な地位を得られるように、それぞれの経営責任者に任ぜられたと考えられている。こうして公領は郡・郷・保などの単位に再編成され、武士たちは郡司・郷司・保司として郡・郷・保の経営と治安維持を受け持つこととなった。彼ら武士は、受領から委任された徴税権・検断権・勧農権などを根拠として、在地領主へと成長していった。さらに言えば、武士身分の田堵負名は、自らの私営田を権門勢家(皇室・有力貴族・有力寺社)へ寄進して荘園とするとともに、荘官に任じられてもいた。つまり、彼らは一方では国衙側の郡司・郷司として国衙領の維持にあたり、一方では荘園側の荘官として荘園拡大を図っていたのである。こうして武士の在地領主化が進行していった。在地領主化した武士は、在庁官人となって国衙行政に参画する一方で、婚姻関係を通じて党を組み、武士団と呼ばれる結合関係を構築していった。一国に1人置かれる国追捕使または国押領使は、次第に特定の家系が世襲するようになり、こうした累代の国追捕使は国内武士の指導者、つまり「一国棟梁」として国内武士を組織化した。 11世紀中葉の後期王朝国家の成立以来、国衙軍制は機能停止してしまった。国内武士は受領の動員命令ではなく、追捕使の地位を持つ「一国棟梁」の指揮に従うようになっていた。1030年(長元3)の平忠常の乱に際して追討使に任じられた源頼信がすぐに忠常を帰服させると、朝廷は国衙軍制に代わる軍事制度として追討使方式を多用し始めた。軍事貴族である源頼信は、追討の成功により多くの板東武士と主従関係を結び、最初の「武家の棟梁」と呼びうる存在となった。有事の際にはこうした「武家の棟梁」が追討使に補任され、主従関係を結んでいる「一国棟梁」以下の武士を動員し、軍事活動を展開したのである。 12世紀末の治承・寿永の乱(源平合戦)を経て、初期鎌倉幕府政権は、国追捕使の権限を継承した惣追捕使を各国に設置することについて、朝廷から承認を得た。惣追捕使は、国内武士を統率する役割を担っており、これは国衙軍制の枠組みを導入したものと評価できる。惣追捕使はその後、守護制度へと発展していった。
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