国衙軍制
国衙軍制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:15 UTC 版)
古代末期から中世初頭にかけて(10世紀 - 12世紀)、国家による個別人身支配を原則とした律令制度は機能しなくなり、土地課税原則の王朝国家へと変質した。中央から派遣された国司は、在地の有力者が務める郡司や富豪百姓を通じた支配を行った。国司は実績をあげるため、郡司・富豪層へ過度な要求を課することが多くあり、これに対する郡司・富豪層らの抵抗が群盗海賊という形態で現出した。これに対しては、健児の制度のみでは対応することができず、富豪百姓が自衛のために武装して対抗した。 朝廷は、国衙・受領に対して軍事権に関しても裁量を許すこととし、国衙はこの在地武力層を兵力として取り込むことが認められた。これは国衙軍制と呼ばれている。この兵力も同じく郡司・富豪層であった。 田堵・負名・開発領主として田地経営に経済基盤を置きながら、受領のもとで治安維持活動にも従事するという、武力を有する在地階層(旧郡司層および新興階層)が形作られていった。 9世紀末に東国で寛平・延喜東国の乱が発生すると、朝廷は発兵(健児以外の臨時徴兵)などの裁量権を受領に与えると共に追捕官符(本来は逃亡者追捕のための太政官符)を国衙へ発給した。大乱へ当たる追捕の責任者には、在地武力層の統率力を養った国司や皇族の末裔が任命された(押領使、追捕使)。
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