展開期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 06:24 UTC 版)
天慶年間(930年代末 - 940年代後葉)の承平天慶の乱(平将門の乱・藤原純友の乱)は、寛平・延喜東国の乱および承平南海賊での勲功行賞が十分に行われなかったために発生したと解されている。寛平・延喜東国の乱と承平南海賊のいずれにおいても、反乱制圧・平和維持に尽力した最初期の武士たちは十分な恩賞が与えられたとは考えなかった。これら功績をあげた最初期の武士たちは貴種の血統を受けており武芸をもって朝廷政治への再復帰を目指していたが、それが叶えられないために実力行使による抗議行動に出たのである。 結果として、抗議行動に出た者たちは反乱者として鎮圧された。そして、鎮圧した勲功者たちが勲功をもとに満足のいく恩賞を獲得することとなった。このとき勲功を挙げた者を承平天慶勲功者と呼ぶ。彼らのほとんどは貴族に属してはいたが、低い官位にある官人であった。しかし、乱の反省から朝廷は彼らを五位・六位といった受領級の中級貴族に昇進させた。そのため、10世紀後半の貴族社会において承平天慶勲功者とその子孫は軍事に特化した家系、すなわち兵の家(つわもののいえ)として認知されるようになり、この兵の家が軍事貴族ないし武士の母体となった。 ところで、王朝国家体制が成立して以来、11世紀中期にかけて、中心的な税目である官物の収納については受領が大きな権限を有していた。受領は郡司・富豪層を出自とする田堵負名らに租税納入の責任を課していたが、税率や減免率などをめぐって受領と負名層の間には対立が生じていた。任期切れ間近の受領は、成績をあげるためにしばしば法令どおりの苛烈な収奪を行った。そのため、田堵負名の中には受領を襲撃したり太政官へ訴訟する(→国司苛政上訴)といった対抗手段に出る者も現れた。特に前者の受領襲撃は、反国家行為として「凶党」と呼ばれ、軍事制圧の対象となった。かかる凶党に対し、実際に追捕にあたったのは受領率いる国衙機構であった。以下、国衙軍制における追捕の流れを概観する。 凶党が発生した場合、国衙は即時に中央の太政官へ報告書(国解)を送付し、これを受けた太政官では議政官(公卿)会議にて審議を行い、国衙へ対し「追捕官符」を発出した。官符によって正当な軍事動員権を獲得した受領は、国衙における軍事指揮者である国追捕使・国押領使・警固使に凶党捜索や犯罪捜査などの追捕活動を命じた。追捕を命じられた追捕使は国内の武士を動員し、実際の追捕活動を展開した。凶党を捕縛した後は、国衙の検非違使が尋問にあたり、捜査経緯をまとめた報告書を受領から太政官へ進達した。 受領から命令を受けた追捕使が動員したのは、国内武士である。国内武士の動員には、動員を要請する文書を順番に回覧する「廻文」の方法が利用されたと見られている。国内武士たちは、動員に応じる場合は自己の名前の直下に「奉」と記載し、応じない場合は「不参」と記載した。凶党追捕が完了したときは、凶党の所領・財産は没収され、追捕にあたった武士たちへ恩賞として給与されたのだろうと考えられている。 受領が国内武士を把握する手続きは次のようであったとされている。受領は赴任した直後に在庁官人に命じて国内の状況をまとめた報告書(「注文」)を提出させていた。その注文をもとに国内武士を列挙した名簿「武士交名」が受領のもとで作成された。「武士交名」に登載されている武士たちは、承平天慶期に勲功を挙げた者もしくはその子孫であって、武芸を世襲している者たちであった。「武士交名」へ登載されていることが武士身分を表す指標だったのであり、すなわち武士とは、武芸者として国衙に承認された者たちを指したのである。こうした国内武士の数は、一国あたり数人 - 十数人程度だったと推測されている。 国内武士を追捕活動に参加させる動機付けとなったのは、勲功の保証である。追捕官符の発布は、追捕に参加して勲功を挙げた者に対する恩賞給与を保証するものだった。追捕官符なしの追捕行為は私合戦とされ、恩賞の対象とはならなかった。また、動員を拒否した場合は処罰の対象となることもあった。
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