国内の状況
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一揆が起こった天保13年(1842年)は、天保の大飢饉(天保4年(1833年) – 天保10年(1839年))の直後で、当に飢饉により多くの人が餓死し、米価高騰や一揆・打ち壊しの姿がまだ生々しい記憶として残っていた。天保7年(1836年)だけで大小129件もの一揆・騒動があったと伝えられる。 代表的な一揆としては天保2年7月26日(1831年9月2日)に長州藩で起きた『防長大一揆(長州藩天保一揆・天保大一揆とも呼ばれる)』、天保7年8月14日(1836年9月24日)に天領の甲斐で起きた『天保騒動(郡内騒動・甲斐一国騒動・甲州騒動とも呼ばれる)』、9月21日(10月30日)三河の加茂郡挙母藩で起きた『加茂一揆』、天保9年5月22日(1838年7月13日)に天領の佐渡で起きた『佐渡一国一揆(佐渡一国騒動)』などがあるが、天保11年11月23日(1840年12月16日)庄内藩など三藩の領地替え(三方領知替え)に反発した『三方領地替反対一揆(天保義民事件)』、天保12年12月4日(1842年1月15日)に徳島藩で起きた『山城谷一揆』など、国や藩の政策を批判する一揆が起き始めていた。 農民等の一揆・騒動に加え、天保8年(1837年)には、2月19日(3月25日)大阪で、飢饉による米不足の中更なる利を求め米買占めを行う商人や、民衆の窮状を省みない役人に反発し救民を訴えた大塩平八郎による反乱(大塩平八郎の乱)が起き、6月1日(7月3日)越後柏崎では国学者生田万が貧民救済を掲げ蜂起(生田万の乱)し、天保10年5月14日(1839年6月24日)には幕府の鎖国政策を批判した高野長英等の蘭学者を捕縛した蛮社の獄が起きた。いずれも幕府や役人への批判が元といえる。
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