移送時のスペイン国内の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 03:07 UTC 版)
「モスクワの金」の記事における「移送時のスペイン国内の状況」の解説
1936年7月19日、第二共和制スペイン共和国政府に対して軍隊の一部がクーデターを決起したが不完全なものに終わり、国内の3分の1を反乱軍が、残りを共和国政府が抑える形でスペイン内戦が勃発する。反乱軍側である民族独立主義派はフランシスコ・フランコに率いられ、内戦を勝ち抜くべく必要な物資の支援を取り付けるためにドイツとイタリアとの交渉にあたった。一方、同様の交渉を共和国政府はフランスと行った。この交渉は両陣営共に内戦を続けるのに必要な物資が不足しているが故のものであったが、他国を巻き込むことにより内戦は国内だけの問題ではなく、徐々に国際的なものとなっていく。 内戦勃発時、フランス政府は中道政党の急進党を含む人民戦線が支配しており国内の政情は不明瞭なものであった。時のフランス首相レオン・ブルムはフランス共産党と共に共和国側を支援し軍事介入を行おうとしたが、急進党はそれに反対しブルム率いる政府への支援を取り消すと脅した。イギリスでは当時首相であった保守党のスタンリー・ボールドウィンの宥和政策を阻害する恐れがあるとして、同様に内戦に介入しないことに同意した。これにより1936年7月25日、フランス政府はスペイン国内で交戦中の共和国側、そしてフランコ率いる反乱軍側双方にフランス本国から物資を支援することを禁止する法案を可決した。欧米の民主主義国家が内政不干渉の原則の則り内戦に対して介入しないことを決めた同日、ドイツのアドルフ・ヒトラーはモロッコ内の反乱軍に対して航空機と乗組員、整備の為の技術者の支援を送り込むことに同意した。その直後、イタリアのベニート・ムッソリーニも輸送機と他の物資を送ることに同意し、この輸送機は同年7月29日、アフリカの反乱軍の部隊を当時反乱軍支配下にあったスペイン本土の南部の都市セビリアに送り込む目的で使用された。 1936年8月1日、フランス政府は"スペイン内戦に対する内政不干渉"を提案し国際世論に訴えかけた。8月7日、イギリス政府はこの提案に対して支援すると表明した。ソビエト、ポルトガル、イタリア、そしてナチス・ドイツは当初この提案に同意し同年9月9日に設立されたスペイン内戦不干渉に関する委員会に参加したが、うち3国は反乱軍側に対して物資及び兵站支援を続けた。一方、共和国側はメキシコやブラックマーケットから物資を得ていた。 反乱軍は8月から9月にかけて次々と勝利を重ね、8月14日に起こったバダホスの戦い後ポルトガルとの国境付近を支配下に置き、9月14日にはイルンを占拠、フランス領バスクと接する国境を封鎖した。反乱軍の各地での進軍を受け、ソビエト政府は方針を転換し内戦に干渉する事を決定、共和国側と外交関係を結んだ後、8月21日にはスペイン共和国への大使を任命した。 9月終盤、各国の共産党にコミンテルン及びモスクワから国際旅団の参加者を募集し組織するよう指令が下った。国際旅団は同年11月より実際に内戦に参加した。その間、トレドにおいて戦闘が起こり反乱軍によって包囲作戦が展開され陥落した。この勝利は反乱軍にとって象徴的なものとなり、勢いづいた反乱軍のマドリードに対する包囲作戦は激しさを増した。 10月を通してソビエト政府はフランシスコ・ラルゴ・カバリェーロによるスペイン人民戦線の新共和国政府に対し救援物資を支援した。この行動に関してソビエト大使イワン・マイスキーは10月23日に行われた不干渉委員会において、以前から行われているドイツ及びイタリアによる反乱軍に対する支援は各国の不干渉の同意に対する侵害であると非難し、ソビエト政府の共和国側に対する支援を弁護した。
※この「移送時のスペイン国内の状況」の解説は、「モスクワの金」の解説の一部です。
「移送時のスペイン国内の状況」を含む「モスクワの金」の記事については、「モスクワの金」の概要を参照ください。
- 移送時のスペイン国内の状況のページへのリンク