移配蝦夷の処遇と闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)
「日本の古代東北経営」の記事における「移配蝦夷の処遇と闘争」の解説
移配先で富裕化すると善行によって叙位されるなど、律令国家側に順応する移配蝦夷が存在した。一方では、貧困と社会的差別の中で抵抗を続けていた移配蝦夷も存在し、しばしば入京越訴と反乱が発生していた。 移配蝦夷の反乱は弘仁5年(814年)に出雲国、嘉祥元年(848年)に上総国、貞観17年(875年)に下総国と下野国、元慶7年(883年)に上総国で発生している。貞観17年5月10日(875年6月16日)に起きた下総国の反乱では、第一報を受けた中央政府が俘囚の反乱を「俘虜の怨乱」と述べている。朝廷から移配蝦夷の怨みが反乱の原因として認識されていた。しかし移配蝦夷が必ずしも好戦的であったわけではなく、問題が起きると所管の国司に訴えていたが、問題が放置されたり、不当な判決を下される事が多かったため朝廷に直接上訴し、それでも解決しない場合に最後の手段として反乱を起こしていた。 移配蝦夷は9世紀初頭以降、防人などの軍事力として利用されるようになる。貞観11年12月5日(870年1月10日)、夷俘50人を1番として1ヵ月交替で鴻臚館や津厨などを守らせることとなった。寛平7年3月13日(895年4月11日)には博多警固所に夷俘50人を置くことが定められている。大宰府以外にも承和6年4月2日(839年5月18日)に右近衛将監坂上当宗と近衛俘夷が伊賀国名張郡山中で銭貨を偽造していた群盗を逮捕した例、貞観9年11月に伊予国宮崎村の海賊を討つために瀬戸内海沿岸の諸国に俘囚を招き募ることを命じた例などがある。
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