モスクワの金
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モスクワの金(モスクワのきん)、もしくは共和国の金(きょうわこくのきん)は、1936年に勃発したスペイン内戦時、スペイン銀行の金保有量の72.6%に当たる510トンの金がマドリードからソビエト連邦に移送された計策を指す。この移送は、第二共和制スペイン共和国政府の命令として共和国首相によって指示され、財務大臣の指揮によって行われた。別に、193トン相当はフランスに移送されそこで通貨に交換された。この件はパリの金と呼ばれる。
2つの意味でのモスクワの金と世界共産主義革命
スペインからモスクワに送られた金(きん)
1930年代には、「モスクワの金」という表現は、スペイン内戦時やその後のフランコ政権初期において、スペインでの出来事に関して、国際上の報道用語として使用されていた。これは、「モスクワへ送られた金(金貨)」という意味である。
世界共産主義革命のためにモスクワから送られた資金
一方、1935年以前から、ヨシフ・スターリン率いるソ連政府は”プロレタリア階級による世界的な共産革命”を掲げ、外交政策を推し進めた。これは、西欧諸国に、政治的、社会的影響を与えた。後の冷戦時代においては、「モスクワの金」という言葉は、欧米の共産主義を掲げる政党や労働組合の共産主義活動の資金は、もっぱら「ソ連から支給されている金、資金」である、という意味で、国際的に使用された。例えば、タイム誌などの英字メディアは、このソ連の国際的な赤化運動を「モスクワの金」と言い表した。「モスクワからの給料」という表現も使われた。ソ連崩壊後の1990年初めには、西欧の共産党でも変容が見られた。その中で、フランスでは、同様に、フランス共産党の資金問題に対して、この表現が用いられた。
研究と論議
1970年代以降、このモスクワに送られた金について、当時の公文書や記録を基にして多くの研究がなされて、論文が書かれ書籍が発行された。スペイン国内においては、長きに渡って論争の火種となっており史学のディベートにおいても頻繁に議題に上がる。論争の中心となっているのは金の移送の動機及びその使い道に対する政治的解釈の相違、移送による内戦の激化、金の移送がもたらした内戦後の亡命政府に対する影響、そしてフランコ率いるスペイン国政府とソビエト連邦の外交関係である。
背景
移送時のスペイン国内の状況

1936年7月19日、第二共和制スペイン共和国政府に対して軍隊の一部がクーデターを決起したが不完全なものに終わり、国内の3分の1を反乱軍が、残りを共和国政府が抑える形でスペイン内戦が勃発する。反乱軍側である民族独立主義派はフランシスコ・フランコに率いられ、内戦を勝ち抜くべく必要な物資の支援を取り付けるためにドイツとイタリアとの交渉にあたった。一方、同様の交渉を共和国政府はフランスと行った。この交渉は両陣営共に内戦を続けるのに必要な物資が不足しているが故のものであったが、他国を巻き込むことにより内戦は国内だけの問題ではなく、徐々に国際的なものとなっていく。どこから武器弾薬を購入できるのか、が勝敗を分かつ要件となっていた。
欧州諸国の実情
内戦勃発時、フランス政府は中道政党の急進党を含む人民戦線が支配しており国内の政情は不明瞭なものであった。時のフランス首相レオン・ブルムはフランス共産党と共に共和国側を支援し軍事介入を行おうとしたが、急進党はそれに反対しブルム率いる政府への支援を取り消すと脅した。イギリスでは当時首相であった保守党のスタンリー・ボールドウィンの宥和政策を阻害する恐れがあるとして、同様に内戦に介入しないことに同意した。これにより1936年7月25日、フランス政府はスペイン国内で交戦中の共和国側、そしてフランコ率いる反乱軍側双方にフランス本国から物資を支援することを禁止する法案を可決した。欧米の民主主義国家が内政不干渉の原則の則り内戦に対して介入しないことを決めた同日、ドイツのアドルフ・ヒトラーはモロッコ内の反乱軍に対して航空機と乗組員、整備の為の技術者の支援を送り込むことに同意した。その直後、イタリアのベニート・ムッソリーニも輸送機と他の物資を送ることに同意し、この輸送機は同年7月29日、アフリカの反乱軍の部隊を当時反乱軍支配下にあったスペイン本土の南部の都市セビリアに送り込む目的で使用された。
空洞化した内政不干渉
1936年8月1日、フランス政府は"スペイン内戦に対する内政不干渉"を提案し国際世論に訴えかけた。8月7日、イギリス政府はこの提案に対して支援すると表明した。ソビエト、ポルトガル、イタリア、そしてナチス・ドイツは当初この提案に同意し同年9月9日に設立されたスペイン内戦不干渉に関する委員会に参加したが、うち3国は反乱軍側に対して物資及び兵站支援を続けた。一方、共和国側はメキシコやブラックマーケットから物資を得ていた。
反乱軍は8月から9月にかけて次々と勝利を重ね、8月14日に起こったバダホスの戦い後ポルトガルとの国境付近を支配下に置き、9月14日にはイルンを占拠、フランス領バスクと接する国境を封鎖した。
ソ連の動き
反乱軍の各地での進軍を受け、ソビエト政府は方針を転換し内戦に干渉する事を決定、共和国側と外交関係を結んだ後、8月21日にはスペイン共和国への大使を任命した。
9月終盤、各国の共産党にコミンテルン及びモスクワから国際旅団の参加者を募集し組織するよう指令が下った。国際旅団は同年11月より実際に内戦に参加した。その間、トレドにおいて戦闘が起こり反乱軍によって包囲作戦が展開され陥落した。この勝利は反乱軍にとって象徴的なものとなり、勢いづいた反乱軍のマドリードに対する包囲作戦は激しさを増した。
10月を通してソビエト政府はフランシスコ・ラルゴ・カバリェーロによるスペイン人民戦線の新共和国政府に対し救援物資を支援した。この行動に関してソビエト大使イワン・マイスキーは10月23日に行われた不干渉委員会において、以前から行われているドイツ及びイタリアによる反乱軍に対する支援は各国の不干渉の同意に対する侵害であると非難し、ソビエト政府の共和国側に対する支援を弁護した。
スペイン銀行と金準備
スペイン銀行の成り立ち

スペイン銀行は、18世紀末に起源を持つ民営の株式会社であり、統合を経て1874年には全国規模に拡大し、スペイン主要都市の事務所を通じて、銀行券の発行と国庫への融資、個人への融資と割引を同時に行っていた。総裁と副総裁はそれぞれ政府によって任命され承認されていた。
1921年12月29日に施行された銀行法(当時の財務大臣、フランシスコ・カンボにちなみカンボ法とも呼ばれる。)により同銀行は、中央銀行として整備され、政府との合意の下、新たな金融政策手段を開発した。資本金1億7,700万ペセタ(1株500ペセタの登録株式35万4,000株)の公開有限会社として存続した。金準備の使用に関しては、議会の正式な承認が必要とされる事を明記した。また同法はペセタの為替の誘導、及び国際的な為替市場、貨幣市場に干渉する際に財務省から要求がある場合のみ、政府はスペイン銀行に金準備を売却する事を要求出来る権利を有すると明記した。そして、政府は、総裁1名と副総裁2名を任命する権利を留保した。株主代表や財務省から任命された理事等、21人から成る理事会があった。
金準備
スペイン内戦が勃発する直前の1936年5月、スペインの金準備は、米、仏、英の次の世界第四位量を誇っていた。この金は主にスペインが中立であった第一次世界大戦中に蓄積されたものである。金準備は合計708トンの保有で、主にマドリッドのスペイン銀行に638トンが、また、残りは各地方のスペイン銀行支店やパリに保管されていた。この金準備の内訳は、主にスペインや国外の金貨によるもので、歴史的な古銭は全体の0.01%ほどであった。金塊としての金も64インゴットと決して多くはなかった[1]。当時のスペインが保有する金準備の価値は様々な文献から窺い知ることが出来る。1936年、8月7日、ニューヨークタイムズはマドリッドに保管されているスペインの金準備は当時のアメリカドルにして7億1800万ドルに達すると報じた。これは純金635トンに相当するものである。1936年7月1日にスペイン銀行によって発行された統計によると、内戦3週間前の6月30日時点での金準備は52億4000万ペセタに達したと記録されている。(これは当時の7億1800万ドルに相当する。2005年時点での金額はインフレ指数の変動を含めると97億2500万ドルに相当する)。これと比較し2か月後の9月時点でのスペインの金準備の総額は当時の75億900万ドルと急増する。
歴史家の中には戦時下の金の移送に関して疑問を呈す者もおり、スペイン銀行からの金の移送はカンボ法を明らかに違反していると主張している。
パリへの金輸送と武器資金
スペイン内部での動き
戦争が始まってから、反乱軍は、共和国政府の行うことは違法であるとみなし、代替政権としての機能を構築し始めた。その中の1つには、マドリードから逃れたスペイン銀行の副総裁の下、別の同名であるスペイン銀行が設けられ、それはその拠点となっていたブルゴスに置かれた。これは、国際的には、どちらも合法なものとされた[2]。共和国では、これまでの体制を維持する一方、反乱軍側では、その制圧地域での運営を行った。
違法を合法に改定
7月27日、当時のヒラル首相[3]は、21日の内閣承認を得て、金の一部をフランスに送ることを公表した。施行されていた銀行法では、ペセタの価値を守るための金の売却しか認められていなかった。反乱軍側では、共和国内やフランスからの情報で、この決定を知り、カンボ法の意図からは遠いものであると断定した。反乱軍の在ブルゴスの国防委員会では、8月25日、その送付は無効であるとの詔書を出した。この不都合な状況を正当化するために、1936年8月30日、共和国政府がスペイン銀行の金を財務省のものであるかのように使用できる法的枠組みを作るための留保条項が承認された。実質的には、同銀行の部分的かつ秘密裏の国有化のようなものだった。
数週間が経つにつれ、スペイン銀行の一部の理事達は、自分たちの役割は財務省の指示を受けるだけの立場と分かり、不満を募らせた。また、反乱軍の蜂起により、共和国領内にいた銀行家や資本家の立場は悪化するばかりで、街頭が労働組合とその民兵に占拠されていたマドリードでは、彼らの命が危険にさらされる可能性があった[4]。
フランス政府の状況
フランスの財務大臣とフランス銀行代表は、反ファシストの立ち位置であったので、フランコ側に有利になることを好まず、共和国側を助けるために、これを受け入れることにした[5]。9月には、フランシスコ・ラルゴ=カバジェーロ首相(社会労働党)が就任して、その施策を継続し、また、英国やフランスは、反乱軍の意見を無視した。
このようにして、1937年の3月までの間に、約174トンの純金がフランス銀行に送られた。これはスペインの全準備金の27.4%に相当した。これらは、武器と食糧購入のための外貨に換えられた。共和国国庫は、39億2200万フラン(約1億9600万ドル)を受け取った[6]。その他にも、フランスに、金、銀、宝飾品の多く密輸されたという記録がある[7]。ネグリン大臣は、英国にも、金を売ろうとしたが、政府は、その道を閉じた。武力蜂起が始まった当初、共和国政府は、武器購入委員会を作り、パリ、プラハ、ワシントン、メキシコでの購入に努力した。しかし、武器購入の経験のない政治家で構成されたため、時代遅れの武器や高騰した価格で騙されているのかどうかもわからない状況で、後に軍出身の者が交代した。このように、諸国の軍事不介入とこの不始末があり、初期の数カ月間は武器調達は非常に困難であった。
戦争末期には、モン・ド・マルサンに預けられていた40.2トンが司法により留保されていたが、フランス共和国がフランコ政府を承認した際に、フランコ政府より請求され、戦争終結時に、それはようやく返還された[8]。
モスクワへ輸送された金
輸送の決定

9月13日、さる7月末に閣僚会議で承認されていた件で、フアン・ネグリン新財務大臣の主導により、スペイン銀行の金の移送を許可し、財務省による令が署名された。これでは、将来的に国会への会計報告を行うことを規定していたが、実際、これは行われなかった。この法令にはマヌエル・アサーニャ共和国大統領が署名したが、彼は後に、埋蔵金の最終目的地を知らなかったと主張した。ラルゴ=カバジェロの弁解によれば、大統領は「感情的な状態」と「作戦の控えめな性質」のために、かなり後になってから知らされたのだという。輸送について知っていたのは、ラルゴ=カバジェロ首相、ネグリン財務大臣と海軍、空軍大臣(インダレシオとプリエト)だけであった。しかし、ロシア政府との交渉にあたったのは、前者二人だけだった[9][10]。
輸送決定の理由
フランコ軍の進軍
1936年夏から秋に、フランコ将軍率いる反乱軍は、順調に進軍し首都に迫っており、共和国軍は、成すすべがなかった。しかし、フランコ将軍は、マドリードに進軍するのではなく、トレドのアルカサルで包囲された部隊を助けるために、先にトレドへの作戦を行った。この名高い作戦の成功によってフランコは政治的に強化され、1936年9月29日に国家元首に就任した。一方、これにより、首都は持ちこたえ、共和国政府がバレンシアに逃避したのは、11月6日のことだった。ラルゴ=カバジェロ首相とネグリン大臣は、反乱軍が首都を席巻した場合に、金が彼らの手に落ちるのを恐れ、共和国の資金を確保しておく為に、国外の安全な場所、共和国の武器等の供給をしている支援者である国、すなわちソ連に移そうと考えた[11][12]。
ラルゴ=カバジェロは、後にフランスに亡命した後に、金塊の送付は、不干渉条約により民主主義諸国が共和国から離反した事と、反乱軍によるマドリード空襲の脅威によるものであった、と正当化した。一方、彼の当時の友人は、後に、ソ連の関与があったと言うしかない、それが無かったと言うならば、その行動は狂気の沙汰だったとしか言いようがない、としている。 また一方、研究者オラヤ・モラレスは、金塊がカルタヘナに移されたのは、安全上の理由でも、フランコ主義者や無政府主義者の脅威のためでもなく、モスクワに送るという捕らわれた考えがあったからだと考えている[13]。
さらに、1936年8月には、無政府主義者のアバド・デ・サンティリャンがマドリードでヒラル首相とアザニャ大統領に会い、最後通牒という形で、バルセロナへの金塊の「即時移送」を要求したことがあった。これは拒否されたが、カタルーニャを基盤にする無政府主義勢力がスペイン銀行の埋蔵金に関心を持っていたことを示すものであった。彼らが、スペイン銀行を襲撃するという説もあった[14]。
ソ連の影響
誰がスペインから準備金を持ち出すという発案をしたのかは明らかではない。英国の歴史家アントニー・ビーバーは、ソ連の商務官兼NKVD諜報員であったアーサー・スタシェフスキーが、ネグリンにモスクワに「金での当座預金」を持つべきであると提案したのは、マドリードに迫っていた脅威と武器や原材料を購入する必要性があったからだとする説を引用している[15]。
マルティン・アセーニャによれば、ネグリンにモスクワに金塊を預けることを提案したのもスタシェフスキーであり、当時西ヨーロッパの軍事情報を担当していた赤軍大将で、後にアメリカに亡命したウォルター・クリヴィツキーは、スターリンがスペインへの介入を決定したとき、彼は危険を冒すことを望んでいずに、共和国への援助金を支払うだけの金塊があることを確認したと述べている[16]。
一部の歴史家[17]は、ネグリンを金輸送の発案者と見なしており、このアイデアはソ連を驚かせるものであったので、ネグリンは、ソ連のローゼンバーグ大使に、彼のアイデアを注意深く説明しなければならなかったと主張している[18]。
輸送の経過
スペイン銀行の反応
スペイン銀行理事会に金の差し押さえと移送の決定が伝えられたのは、翌9月14日(月)のことだった。15日に、臨時会合が秘密裏に行われたが、銀行の理事会はこれらの措置を阻止することができなかった。反乱軍側に脱出した者もいて、理事会の人数は減っていたが、その内、2人の理事は辞任した。その1人、マルティネス・フレスネダは、最も強い抗議を表明し、「金は、スペイン銀行の独占的財産であり、国も政府もそれを所有することはできないため、移送は違法である。法により、金が紙幣との互換性を保証しているのだ」と主張した[19]。
金の運び出し
その署名から24時間もしない1936年9月14日に、スペイン銀行の建物に官憲と民兵が入った。これは、財務省によって送られたもので、同銀行の社会党系労組(UGT)と無政府主義労組(CNT)との合意が成されていた。不正取得の任務を指揮したのは、当時の財務省長官で、後にネグリン政権の財務大臣となるフランシスコ・メンデス=アスペであった。彼はフリオ・ロペス=マセゴサ大尉、50~60人の金属工と鍵屋、マドリード労組に所属する銀行員のグループを引き連れていた。出納係長は、金の備蓄が強制的に運び出されることを知り、執務室で自殺した[20]。 鍵が手に入ると、備蓄金が保管されていた箱や部屋が開けられ、政府からの要員が数日間かけて、そこに保管されていた金の大半を運び出した。金は、30.5×48.2×17.7センチメートルの約1万個の木箱に入れられた。これは通常、弾薬などの軍需品の輸送に使われるもので、金の量、重さ、通し番号や送り状は添付されていなかった。
カルタヘナ港への輸送
これらは、現在のアトーチャ駅にトラックで運ばれ、鉄道でムルシア州カルタヘナ市に向けて送られた。ラ・アルガメカの弾薬庫に保管された[21]。カルタヘナには軍港があり、戦闘の前線からは離れていた[22]。目撃者の証言によれば、カルタヘナへの鉄道輸送は社会労働党の車両旅団によって警護されていた。金の移動を知った反政府側は、これを「強奪行為」と表現し、国際的に抗議した[23]。
これで、一応、安全な場所に保管されたことになり、政府の意図は実行されたことになった。ある学者は、この時点では、まだ行先は決まっていなかった、と考えている[24]。このような手順で、後の1938、39年に銀の運び出しも行われ、米国やフランスに運び出された。
ソ連への輸送
1936年10月6日、共和国の閣僚会議では、行き先は特定しないものの、最終的に金を国外に持ち出すことを承認した。10月15日、ネグリンとラルゴ=カバジェロは、カルタヘナからソ連へ金塊を移送することを決定した。両政府間の合意書は、ラルゴ・カバジェロとソ連政府の財務委員ローゼンゴルツによって署名された。ネグリンは、アザーニャ大統領に詳細に報告するよう主張した。大統領は、この知らせに、首相と財務大臣にこの作戦に満足していることを熱く表明した[24][25]。
10月20日、在スペインNKVDの責任者アレクサンドル・オルロフは、スターリンから暗号電報を受け取り、金塊のソ連への輸送を組織し、ネグリンと取り決めをするよう命じられた。1936年10月22日、財務省長官でネグリンの右腕であったフランシスコ・メンデス=アスペは、カルタヘナに到着し、1箱約75キロの金を夜間に運び出すよう命じた。これらは、トラックで運ばれ、ロシア船舶のKIM、クルスク、ネヴァ、ヴォルゴレスの4隻に積み込まれた。これらの船は、ソ連の戦車旅団を運んできており、これらは、2週間前にカルタヘナに上陸していた。金塊を積み込むのに3晩かかり、10月25日、4隻の船はソ連の黒海の港、オデッサに向けて出航した。
金の到着とスターリンの反応
11月2日の夜、スターリンは、金塊を積んだ3隻の船(クルスク号は故障のため数日遅れた)が5779箱の貴金属を積んでオデッサに到着した知らせを受け取った。これは、NKVD第173連隊に警護され、直ちに、モスクワの人民金融委員会の貴金属保管所に列車で移された。11月5日付で、議定に従って、金融委員会代表、貴金属サービス局長J.V.マルグーリス、外国為替サービス局長O.I.カガン、対外業務委員会代表、マルセリーノ・パスクア駐ソ連スペイン大使からなる受取委員会の名によって、預託金として受け取られた。この金塊がソ連の首都に到着したのは、10月革命19周年の前日だった。さらに、11月9日から10日にかけて、クルスク号で輸送されて遅れて2021箱が到着した。その後、372箱のサンプルが検査され、11月20日に予備受領報告書が作成された。オルロフによれば、スターリンは金塊の到着を祝って政治局メンバーとの宴席を設け、「スペイン人は、二度と金を見ることはないだろう。彼ら自身の耳を見ることができないのと同じように。」と語ったという[26][27]。
金の価値
金の集計
スペインから派遣された4人の担当者は、全体の集計をするために、1日7時間の2交代制で1年間従事することを計画していたが、12月5日に始まった作業は、細心の注意を払って行われたにもかかわらず、2カ月足らず後の1937年1月24日には終了した。その作業は、1万5571個の袋を開けて、内容を確認することであった。
金の総量と価値
この中には、16カ国の多様な金貨が集められていた。この最も多量であったのは、英国のポンドで7割を占めていた[28]。この納入は、509,287,183キログラムの硬貨と792,346キログラムの金の延べ棒と切削くずで、合計510,079,529.30グラム、約510トンの純金に相当し、その平均品位は900,000分の1で460,568,245.59グラムの純金に相当した。さらに、歴史的古銭の価値は、多大な価値を持つものであったが、ソ連側では、あまり考慮されなかったようである[29]。これらは、徐々に換金されたものと思われる[30]。
ある研究者は、この金の価値を、最低でも122億ユーロ(2010年3月の金価格、1オンスあたり824ユーロ)と見積もっており、その貨幣価値は200億ユーロを超える可能性があると考えている[31]。
最終契約
集計が完了した後の、1937年2月5日、スペイン大使とソビエト政府高官であるG.F.グリンコー財務大臣とN.N.クレスチンスキー外務副大臣は、フランス語とロシア語で準備された、スペイン金預託の最終受領行為文書に署名した。この文書の第2項第4節には、スペイン政府は金を自由に再輸出または処分することができると規定されており、また、共和国当局によって使用される、この寄託金についてソビエトがいかなる責任も放棄するという条項が含まれていた。この条項では、「共和国政府が、ソビエト連邦が預かった金の輸出を命じた場合、またはその他の方法で金を処分した場合、財政人民委員会が本法律で負う責任の全部または一部は、スペイン共和国政府の規定に従って自動的に軽減される」と規定されていた。このように、この金はスペイン共和国が輸出または処分することによって自由に使用できるものであり、ソ連当局はこの金の運命について一切の責任を負わないことが明らかにしている。なお、ソ連はこの金の所有権を、真の所有者であるスペイン銀行ではなく、スペイン共和国に与えた[32]。
関係者の運命
その後数ヶ月の間に、スペインの金輸送事件に関わった何人かの要人は劇的な最期を遂げた。スタシェフスキーは1937年にNKVDによって処刑され、ローズマンバーグソ連大使も1938年には同じ運命をたどった。オルロフは、次は自分の番だと恐れ、スターリンからソ連への帰還を命じる電報を受け取った後、その年の暮れにアメリカに亡命した。ソ連財務省の人民委員であったグリンコー、クレスチンスキー、マルグーリス、カガンは、反ソ連の「トロツキスト右翼集団」に属していたとして告発された後、1938年3月15日に処刑されるか、さまざまな形で強制失踪の犠牲となった。特にグリンコーは、「ソビエト連邦の財政力を弱体化させる努力」をしたとして告発された。
また、この作戦を完遂するために派遣された4人のスペイン人要員は、1938年10月までスターリンに拘束され、その後初めて、国外の別々の遠方の場所への出発が許可された。スペイン大使マルセリーノ・パスクアはパリに移送された。[33][34][35]
金のその後
後に亡命したネグリン財務大臣の息子のロムロ・ネグリンは、1956年12月18日に、フランコ政権に引き渡した作戦の会計記録と情報を含む、いわゆるは「ネグリン文書」を提出した。これは、スペイン銀行の歴史アーカイブに保管されている。この文書により、研究者たちは、スペインの金がモスクワで受け取られた後に何が起こったかを再構築することができた[36]。ソビエトはコインを溶かし、低合金金塊に変え(そのために法外な価格を請求した)、それと引き換えに、共和国財務省の在外の銀行口座に供給した。ある研究者は、ソ連は、ごまかしはしなかったが、様々な経費を要求してきた、という[37]。別の研究者は、ルーブルからドル、ドルからペセタへの為替レートを操作し、国際為替レートを30~40%も値上げすることで、スターリンが販売した戦争物資の価格をつり上げたという考えから、ソ連の詐欺があったと主張している[38]。一方、金が本当にソビエトに売却されたのであれば、金の売却によって発生した外貨がすべてパリの北ヨーロッパ商業銀行に送金されたのかどうかという疑問は、ソビエトでもスペインでも、そのような操作に関する文書が見つかっていないため、未解決のままである。
いずれにせよ、ネグリンは軍事装備品の購入に関する領収書を研究も保管もしていなかったため、それが本当に必要なものなのか、ソ連の顧問が適切だと考えたものではないのか、前線での正しい配分を保証し、その品質と価格を保証するものなのか、といったことは全く分かっていなかった。
また、ソ連が金を支配していたことを利用して圧力をかけ、当時の共産主義者が絶対権力を行使していたという話もある。ホセ・ヒラル首相前任者によれば、すべての武器購入費を支払ったにもかかわらず、共和国政府が「重要な軍事・警察ポストを共産主義者に引き渡すことにまず同意しなければ」、ソ連はいかなる資材も送らなかったという[39][40]。
その後の共和国への経済的影響
国内政治への影響
内部抗争
1937年1月15日、無政府主義労組CNTの新聞『ソリダリダ・オブレラ』が「金を海外に送るという狂った考え」を非難すると、政府機関コスモスは、1月20日、非公式なメモを発表し、金はまだスペインにあると述べた。 まもなく、無政府主義とマルクス主義統一労働党(POUM)の組織と、社会主義者と共産主義者の政府との間の争いは、1937年5月の暴力的な衝突に現れ、無政府主義者の敗北に終わった[41]。
国内経済への影響
共和制政府への信用の失墜
反政府勢力が主張する金の流出によって、政府の財政的信用が疑われ、一般市民は疑心暗鬼に陥った。1936年10月3日の財務省令は、スペイン人に対し、硬貨でもどういう形でも、所有しているすべての金を共和国当局に引き渡さなければならないというものであった。1937年1月、政府は没収された金塊が海外に保管されていたことを否定したが(前述)、金塊を使って武器類の支払いを行ったことは認めざるを得なかった[42]。スペイン銀行の金のモスクワへの流出は、1937年の共和国スペインの通貨危機の引き金のひとつとされている[43]。いずれにせよ、金を使い果たした共和国国庫のわずかな信用は消滅した[44]。当時は、常に切り下げられる通貨の裏付けとなる金の準備は必要なく、内外の貿易は事実上抑制され、産業は専ら軍需に専念していたため、裏付けもない紙幣が大量に発行されるようになり、流通紙幣が増加した[45]。
民衆の反応
このため、インフレーションがひどくなり、共和国通貨ペセタの下落が加速し、国民は貴金属(金と銀)を買いだめした。金属製の硬貨は事実上姿を消し、丸いボール紙や紙切れに取って代わられた。大多数の市民は、減価した紙幣を貨幣として受け入れることを拒否した。また、物価上昇により、買える物資は限られていた。
一方、反乱軍の進軍は、さらに、経済的な悪化をもたらした。もし反乱軍が勝利すれば、共和国側が最近発行した紙幣は価値を失うと、共和国地区の住民は知らされたからである。その紙幣はすべて1936年7月以降に発行された新シリーズであったため、フランコ政権は流通を認めていなかった。1938年半ばから終戦まで、共和国地域は物々交換と配給された食料の無料配布で糊口をしのぎ、外国人や政府のエリートを除いて、外貨を持たない大多数の人々にとって、経済取引は事実上麻痺していた。
共和国側の対応
共和国政府は、このような状況に対応する術を知らなかった。この状況で、市町村などの地方機関は、地方各自の金券を印刷したが、住民は、これも信用せず、機能しなかった[46][47]。これによって、実情はさらに厳しくなった。 反乱側は、このようなインフレは人為的かつ計画的に引き起こされたものであると宣伝した。共和国ゾーンでは、経済の国有化もインフレの救済策として推進された。1937年3月に、スペイン共産党の本会議にホセ・ディアス・ラモス書記長が提出した報告書では、国有化をさらに進める意見が述べられていた。これにより、国際社会では、共和国が反資本主義的な革命状況にあるとの認識が生まれ、元王政大臣でフランコ側の積極的な協力者であったフランセスク・カンボ(金融界で大きな影響力を持つ人物)のようなスペインの金融関係者の証言が支持された。自分たちの利益と財産が脅かされるのを見て、スペイン国内外の金融界は明確に反乱軍を支持する姿勢を示した。国内では、実業家のフアン・マーチ、米国では、ヘンリー・フォード、テキサス・オイル・カンパニーが反乱軍側を支持したり、または、彼らが信用を得るための便宜を図ることになった。これにより、共和国のペセタの国際相場の下落を加速させていった。
脚注
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- ^ Sánchez Asiaín 1999, p. 249-250.
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- ^ “El oro de Moscú. ¿El mayor robo de la historia? - La Historia de España - Memorias Hispánicas” (スペイン語) (2024年2月29日). 2025年7月11日閲覧。
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- ^ Pio Moaによる引用 Fundación Pablo Iglesias, Archivo de Francisco Largo Caballero, XXIII, p. 477
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- ^ Martín-Aceña 2001, p. 95.
- ^ Gabriel Jackson と Víctor Alba
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- ^ Sánchez Asiaín 1999, p. 114-115.
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- ^ Rosal 1977, p. 30.
- ^ Viñas 1976, p. 139.
- ^ 'El Heraldo de Aragón abría el jueves 15 de octubre de 1936、 アラゴン州における新聞「ヘラルド・デ・アラゴン」、1936年10月15日発行。
- ^ a b Viñas 1976, p. 137.
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