ばんしゃ‐の‐ごく【蛮社の獄】
蛮社の獄
蛮社の獄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 15:53 UTC 版)
天保10年(1839年)4月9日、春山が康直の参勤に伴って江戸詰めとなってまもなく、同年5月14日、「蛮社の獄」が起こった。渡辺崋山が捕えられ、長英は逃亡、小関三英は自害し、春山も自宅の蘭書などを押収されたものの、春山自身は逮捕を免れた。5月18日、春山は偶然にも自首前の長英に会い、獄中記『鳥の鳴音』と後事を託されたという。春山は江戸で崋山救済のために奔走し、例えば事件を受けて出府した田原藩儒・伊藤鳳山とともに掛川藩儒である塩谷宕陰と合議でどこかへ救援を依頼する書面の作成を画策したり、牢内の渡辺崋山と手紙をやり取りするなどしていることが崋山の画友である椿椿山の蛮社の獄についての書留録『麹町一件日録』に見える。その後崋山が蟄居のために国許・田原に護送された際には先立って帰郷し、獄中での衰弱を回復すべく治療に当たり、画商を紹介して崋山の画を売る、話し相手となり時に元気づけるなど、積極的に世話をした。しかし、こうして春山が国事犯で蟄居中の崋山と堂々と交渉を持ち、救援していることを藩内にはよく思われていなかったようで、隣藩・吉田藩の吉田善伸は「田原には困った山が三つあるとのこと。崋山、春山、いま一人は近年お抱えの儒者(伊藤鳳山)である」という風聞が流れてきたことを書き留めている。結局、春山は天保12年(1841年)の夏ごろには出府し、崋山を寂しがらせている。10月11日、崋山は蟄居していた自邸で自害した。春山は江戸でこれを知り、10月27日、蛮社の獄の際の救援活動で知遇を得た崋山の師で儒学者の松崎慊堂にこのことを報告している。
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蛮社の獄
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天保8年(1837年)、異国船打払令に基づいてアメリカ船籍の商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件が起きた。翌天保9年(1838年)にこれを知った際、長英は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、崋山らとともに幕府の対応を批判している。意見をまとめた『戊戌夢物語』を著し、内輪で回覧に供した(ただし、長英の想像を超えてこの本は多くの学者の間で出回っている)。 天保10年(1839年)、蛮社の獄が勃発。長英も幕政批判のかどで捕らえられ(奉行所に自ら出頭した説もある)、永牢終身刑の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監。牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。これらの行動と親分肌の気性から牢名主として祭り上げられるようになった。獄中記に『わすれがたみ』がある。 弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷の火災による「切り放ち」に乗じて脱獄。この火災は、長英が牢で働いていた非人栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力である。切り放ち後、長英は再び牢に戻って来ることはなかった。脱獄後の経路は詳しくは不明ながらも、大間木村(現:さいたま市緑区)の高野隆仙のもとに匿われた。高野家離座敷は文化財として公開されている。後に、一時江戸に入って鈴木春山に匿われ、兵学書の翻訳を行うも春山が急死。鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。主な半翻訳本に砲家必読11冊がある。このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は、当時としては最高の技術を結集したとされる。しかし、この生活も長くは続かず、暫くして江戸に戻り、「沢三伯」の偽名を使って町医者を開業した。このとき、江戸では既に長英の人相書きが出回っていたことと、医者になれば人と対面する機会が多くなり、誰かに見破られることも十分に考えられたため、逃亡生活の最中に硝酸で顔を焼いて人相を変えていたとされている。 嘉永3年(1850年)10月30日、江戸の青山百人町(現在の東京・南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛された。何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だったため、やむを得ず駕籠で護送する最中に絶命したという。
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蛮社の獄
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鳥居耀蔵から『戊戌夢物語』の著者として渡辺崋山の探索を命じられた小笠原貢蔵は、花井から情報を得て、崋山が無人島渡航を計画しているとして告発した。しかし、取り調べが進むにつれて花井の証言はつじつまが合わない点が見つかり、花井は直接取り調べにあたった町奉行の大草高好から叱責を受けることにもなった。そして吟味方の中島嘉右衛門の取り調べによって 崋山がルソン、ハワイ、アメリカへ渡航する計画を立てた証拠は無い 大塩平八郎に同情し、その計画を事前に知っていたというが、その証拠は無い 海外渡航を企画していた人たちとは知り合いではない オランダ商館長ニーマンが述べた幕政批判を紹介する文章を書いたというが、その文章は過去に起きた出来事について書いたものである ということ、そして無人島の渡航計画は花井が提案したことが明らかにされた。幕府を批判したという文書も、途中で書くのを止めてしまいこんだもので、花井以外の人には見せていないものだということも渡辺の証言から分かった。 渡辺崋山は田原藩に蟄居という処分が下されたが、本来極刑を下されるところだったのを減刑されたのは、渡辺の師匠である松崎慊堂が老中・水野忠邦に上申した「赦免建白書」が決め手となった。その建白書には、「崋山は一人物(花井虎一)の讒言によって罪に陥れられた」とも書かれていた。渡辺も花井の虚偽の告発によって取り調べを受けたことは知っていたが、花井のことは少しも意に介しておらず、天を怨まず、人をとがめず、心中には一点の憤りもないと書き残している。 無人島の渡航計画に関わっていた者たちは、無量寿寺住職の順宣は100日の押込、それ以外の者は吟味中に獄死しており、拷問を受けて死んだものとみられる。しかし、讒訴をした花井は、自ら訴え出たのは奇特なことであると鳥居に擁護され、誣告罪にもならず「お叱り」の処分を受けただけで、天保12年4月には学問所勤番(50俵3人扶持)に抜擢された。
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蛮社の獄
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相州備場の見分後、当時小人目付だった貢蔵は、鳥居耀蔵から老中水野忠邦の命であるとして『戊戌夢物語』とその著者と思われる渡辺崋山の身辺調査、そしてモリソン号を調べるよう命じられた。貢蔵は納戸口番の花井虎一からの情報を得て、高野長英の翻訳に基づき渡辺崋山が『戊戌夢物語』を執筆したと報告した。その際に、無人島渡航計画が江戸市中で企まれていることもあわせて報告した。 渡航計画の再調査を命じられた貢蔵は、常州無量寿寺に赴き、渡航計画は寺の住職である順宣・順道父子が小笠原諸島へ行き、島にある珍しい植物や奇石を手に入れ売却しようとしたものということを突き止めた。海外渡航や外国人との接触を目的としたものではなく、また幕府にも正式に渡航許可を申請しており、渡辺が関与していたという事実も無かったが、貢蔵はこの計画に渡辺も加わっていると報告した。 これらの他に、モリソンは交易の要請が拒絶された場合、沿岸の官舎や民屋を焼き払い、日本沖を航行する船の通行を妨害するつもりでいたという報告も行なった。これは、天保9年(1838年)に江戸に参府したオランダ商館長ヨハネス・エルデウィン・ニーマンの申し立てを元にした情報だったが、これは取り上げられることはなかった。 「小笠原家文書」によれば、貢蔵は天保10年4月19日に江戸城で鳥居から蘭学者が外国を称美するような本を著述していることを調べるよう命じられたとあり、同文書に収録された取調書には、渡辺崋山や高野長英、無量寿寺住職の順宣やその息子の順道たちの名前が列記されている。渡辺崋山に関しては、文武に優れ、書画に秀でた人物であり、物静かで一度会った人々は親しみを持つようになるとも書かれていた。そして外国との交易に肯定的で、外国船が浦賀の沖合で長期に碇泊するようなことがあれば、江戸に物資が入荷しなくなり、幕府も交易を認めざるを得ないであろうと述べたと記されている。 渡辺崋山は、自身への告発に対して当初は当惑していたが、6月9日に牢獄から出した鈴木春山宛の手紙によれば、告発者が小笠原貢蔵であること、その背後に鳥居耀蔵がいることにすでに気付いていた
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