モリソンごう‐じけん〔‐ガウ‐〕【モリソン号事件】
モリソン号事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/02 14:05 UTC 版)

モリソン号事件(モリソンごうじけん、英: Morrison Incident)は、1837年(天保8年)7月30日、日本人漂流民(音吉ら7人)を乗せたアメリカ合衆国の商船を日本側砲台が砲撃した事件[1]。
鹿児島湾、浦賀沖に現れたアメリカのオリファント商会の商船「モリソン号 (Morrison) 」(ロバート・モリソン (宣教師)に因んだ命名)をイギリス軍艦と勘違いし、薩摩藩および浦賀奉行太田資統は異国船打払令に基づき砲撃を行った(江戸湾で砲撃を命ぜられたのは小田原藩と川越藩)。
しかし、このモリソン号にはマカオで保護されていた日本人漂流民の音吉・庄蔵・寿三郎ら7人が乗っており、モリソン号はこの日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航していたことが1年後に分かり、異国船打払令(外国船打払令)に対する批判が強まった[1]。
のちに、『慎機論』を著した渡辺崋山、『戊戌夢物語』を著した高野長英らが幕府の対外政策を批判したため逮捕されるという事件(蛮社の獄)が起こる[1]。
脚注
参考文献
- 田中弘之『「蛮社の獄」のすべて』吉川弘文館、2011年。
- 山田勝『イギリス紳士の幕末』日本放送出版協会、2004年8月30日。
関連項目
- デアード・インガソル(モリソン号船長)
- カール・ギュツラフ(モリソン号に乗船していた宣教師)
- サミュエル・ウィリアムズ(同上)
- 尚歯会
モリソン号事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 23:25 UTC 版)
蛮社の獄の発端の一つとなったモリソン号事件は、天保8年(1837年)に起こった。江戸時代には日本の船乗りが嵐にあい漂流して外国船に保護される事がしばしば起こっていたが、この事件の渦中となった日本人7名もそのケースであった。彼らは外国船に救助された後マカオに送られたが、同地在住のアメリカ人商人チャールズ・W・キング(英語版)が、彼らを日本に送り届け引き替えに通商を開こうと企図した。この際に使用された船がアメリカ船モリソン号である。 天保8年(1837年)6月2日(旧暦)にマカオを出港したモリソン号は6月28日に浦賀に接近したが、日本側は異国船打払令の適用により、沿岸より砲撃をかけた。モリソン号はやむをえず退去し、その後薩摩では一旦上陸して城代家老の島津久風と交渉したが、漂流民はオランダ人に依嘱して送還すべきと拒絶され、薪水と食糧を与えられて船に帰された後に空砲で威嚇射撃されたため、断念してマカオに帰港した。日本側がモリソン号を砲撃しても反撃されなかったのは、当船が平和的使命を表すために武装を撤去していたためである。また打ち払いには成功したものの、この一件は日本の大砲の粗末さ・警備体制の脆弱さもあらわにした。 翌天保9年(1838年)6月、長崎のオランダ商館がモリソン号渡来のいきさつについて報告した。これにより初めて幕府は、モリソン号が漂流民を送り届けに来たこと及び通商を求めてきたことを知った(ただしモリソン号はイギリス船と誤って伝えられた)。老中水野忠邦はこの報告書を幕閣の諮問にかけた。7~8月に提出された諸役人の答申は以下のようである。 勘定奉行・勘定方「通商は論外だが、漂流民はオランダ船にのせて返還させる」 大目付・目付「漂流民はオランダ船にのせて返還させる。ただし通商と引き換えなら受け取る必要なし。モリソン号再来の場合は打ち払うべき」 林大学頭(林述斎。鳥居耀蔵の父)「漂流民はオランダ船にのせて返還させる。モリソン号のようにイギリス船が漂流民を送還してきた場合むやみに打ち払うべきではなく、そのような場合の取り扱いも検討しておく必要あり」 水野は勘定奉行・大目付・目付の答申を林大学頭に下して意見を求めたが戌9月の林の答申は前回と変わらず、水野はそれらの答申を評定所に下して評議させた。これに対する戌10月の評定所一座の答申は以下のとおり。 評定所一座(寺社奉行・町奉行・公事方勘定奉行)「漂流民受け取りの必要なし。モリソン号再来の場合はふたたび打ち払うべし」 水野は再度評定所・勘定所に諮問したがいずれも前回の答申と変わらず、評定所以外は全て穏便策であったため、12月になり水野は長崎奉行に、漂流民はオランダ船によって帰還させる方針を通達した。
※この「モリソン号事件」の解説は、「蛮社の獄」の解説の一部です。
「モリソン号事件」を含む「蛮社の獄」の記事については、「蛮社の獄」の概要を参照ください。
モリソン号事件と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- モリソン号事件のページへのリンク