蛮社の獄とその最期
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翌天保9年(1838年)にモリソン号事件を知った崋山や長英は幕府の打ち払い政策に危機感を持ち、崋山はこれに反対する『慎機論』を書いた。しかしこの書は海防を批判する一方で海防の不備を憂えるなど論旨が一貫せず、モリソン号についての意見が明示されず結論に至らぬまま、幕府高官に対する激越な批判で終わるという不可解な文章になってしまった。内心では開国を期待しながら海防論者を装っていた崋山は、田原藩の年寄という立場上、『戊戌夢物語』を書いた長英のように匿名で発表することはできず、幕府の対外政策を批判できなかったためである。自らはばかった崋山は提出を取りやめ草稿のまま放置していたが、この反故にしていた原稿が約半年後の蛮社の獄における家宅捜索で奉行所にあげられ、断罪の根拠にされることになるのである。 かつて、蛮社の獄は、幕府の保守派、目付鳥居耀蔵が蘭学者を嫌って起こした事件とされていたが、これは明治の藤田茂吉がこれを自由民権運動との連想で書いたためである。だが実際には、鳥居と江川英龍との確執が原因であり、天保10年(1839年)5月、鳥居は江川とその仲間を罪に落とそうとした。江川は老中水野忠邦にかばわれて無事だったが、崋山は家宅捜索の際に発表を控えていた『慎機論』が発見され、陪臣の身で国政に容喙したということで、田原で蟄居することとなった。 以上の通説に対して、江戸湾巡視の際に鳥居と江川の間に対立があったのは確かだが、もともと鳥居と江川は以前から昵懇の間柄であり、両者の親交は江戸湾巡視中や蛮社の獄の後も、鳥居が失脚する弘化元年(1844年)まで続いているとの指摘がある。鳥居は江戸湾巡視や蛮社の獄の1年も前から花井虎一を使って崋山の内偵を進めており、蛮社の獄の原因を鳥居と江川の確執に求めるのは誤りで、蛮社の獄は鳥居が『戊戌夢物語』の著者の探索にことよせて「蘭学にて大施主」と噂されていた崋山を、町人たちともに「無人島渡海相企候一件」として断罪し、鎖国の排外的閉鎖性の緩みに対する一罰百戒を企図して起こされた事件であるとしている。 天保12年(1841年)、田原の池ノ原屋敷で謹慎生活を送る崋山一家の貧窮ぶりを憂慮した門人福田半香の計らいで江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てることとなった。ところが、生活のために絵を売っていたことが幕府で問題視されたとの風聞が立ち(一説には藩内の反崋山派による策動とされている)、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹した。 著書に『初稿西洋事情書』『再稿西洋事情書』『外国事情書』『鴃舌或問』『鴃舌小記』など。 崋山に対する反崋山派の圧力はその死後も強く、また幕府の手前もあり、息子の渡辺小崋が家老に就任して家名再興を果たした後も墓を建立することが許されなかったという(江戸幕府が崋山の名誉回復と墓の建立を許可したのは、江戸幕府滅亡直前の慶応4年3月15日(1868年4月7日)のことであった)。なお、小崋をはじめとする崋山の子女はいずれも子供に恵まれなかったために、明治期にその家系は断絶することになった。 1891年(明治24年)、崋山に正四位の位階が贈られた。1946年(昭和21年)、田原城出丸跡に崋山を祭神とする崋山神社が創建された。
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