大橋淡雅とは? わかりやすく解説

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大橋淡雅

(菊池淡雅 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/10 15:22 UTC 版)

大橋淡雅像(部分) 椿椿山筆

大橋 淡雅(おおはし たんが、天明8年(1788年[注釈 1] - 嘉永6年5月17日1853年6月23日))は江戸の豪商「佐野屋」主人・初代孝兵衛。略して佐孝とも呼ばれた[2]。書画コレクター・鑑定家として知られ渡辺崋山佐藤一斎などの文人・画人と交遊した。名は知良・を温卿・通称孝兵衛のち良左衛門。のち長四郎と改名[2]。晩年に淡雅とした。別号に東海享軒。下野国の生まれ。

略歴

下野国都賀郡粟宮村の医師大橋英斎(栄斉)の子として生まれたが、15歳のとき宇都宮の古着商佐野屋を営む菊池家[注釈 2]の婿養子となる[注釈 3]。1811年に家督を岳父の弟・栄親(佐野屋11代当主、1779-1834)に譲り、江戸に出る[2]

1814年(文化11年)、26歳のとき岳父孝古(菊池治右衛門)から資財を受けて江戸日本橋元浜町(現日本橋富沢町日本橋大伝馬町)に佐野屋の分家として別店を出す。以来、20年間商才を発揮して、1834年に真岡晒木綿の販売を開始して大手太物商となり[2]呉服商・真岡木綿の中継問屋・両替商と事業を拡大。江戸を中心に関東一円に50店以上を持つ豪商となる。

財を成した晩年から書画をコレクション[注釈 4]し、書法の鑑定家として知られるようになる。また佐藤一斎渡辺崋山椿椿山立原杏所[注釈 5][注釈 6]など文人墨客と盛んに交遊し、同郷の画家高久靄厓を熱心に支援している。明の書家張東海に私淑して草書を能くし東海享軒[注釈 7]と号した。

著書『淡雅雑著』では商人の道義と徳を述べ、「余りあれば必ず施し、人を富まして自ら富む」と説いている。事実、天保の大飢饉では惜しみなく私財を投じて救民に尽くした。享年66。谷中天王寺に葬られる。

なお淡雅の妻民子(1795 - 1864)は雅号を倭文舎(しずのや)とし歌人として知られる。歌集『倭文舎集』・紀行文『江の嶋の記』を著した。息子の菊池教中、娘婿の大橋訥庵は勤王家として知られる。娘巻子も歌人として知られ、坂下門外の変で投獄された夫・訥庵と弟・澹如への思いを綴った『夢路日記』は勤王の志士を奮い立たせた。

家族

  • 実父・大橋栄斎(英斎)藤原知英 ‐ 粟宮村(現・小山市)の医師[2]
  • 養父(岳父)・菊池治右衛門(孝古、1776-1814) ‐ 宇都宮の豪商「佐野屋」10代当主[2]。父親は9代当主・満真、母親は英斎の妹・伊与、後妻の宮は英斎の娘で淡雅の姉[4]
  • 妻・民子 ‐ 養父の娘[2]
  • 長女・作 ‐ 宇都宮の佐野屋12代当主・治右衛門(謙次、孝光、1813-1859)の妻となるも18歳で早世[2][4]
  • 三女・巻子 ‐ 大橋訥庵の妻[2]
  • 四男(嫡子)・菊池教中 ‐ 江戸の佐野屋2代当主・孝兵衛(幸兵衛)[2][5]
    • 長女・久子 ‐ 宇都宮の佐野屋12代治右衛門の二男(四男とも)・政経(初代永之助)を入婿にして本所で質屋を開いたが離縁し、相川文五郎(相川文五郎 (7代)の父)と再婚。[2][4]
    • 長男・菊池長四郎(経政、慧吉、1853-1920) ‐ 江戸の佐野屋3代当主・孝兵衛[2][6]
      • 娘婿・菊池長四郎(晋二、惺堂、1867-1935) ‐ 大橋陶庵(大橋訥庵の娘婿)の長男で、先代長四郎の長女・イトの入婿となり、菊池長四郎を襲名[7][6]
    • 二男・菊池治右衛門(武寛、勇蔵、1856-1896) ‐ 宇都宮の佐野屋14代当主[2][4]
    • 三男・菊池三郎(武文)[4]

著作

  • 『淡雅雑著』上巻「保福秘訣」・中巻「富貴自在」

脚注

注釈

  1. ^ 墓碑では寛政元年(1789年)7月28日生まれとしている[1]
  2. ^ 菊地とも。
  3. ^ 菊池家の婿であったが終生大橋姓を名乗った。
  4. ^ 書画商安西雲煙らと書画の展覧会・鑑定会を開催した[3]
  5. ^ 南画家の杏所は淡雅の娘・巻子に恋焦がれるも、娘婿として儒学者を強く望んでいた淡雅の反対で想いは報われることはなかった。そもそも商家の淡雅に対し、杏所の本職は武家(水戸藩士)である。杏所は傷心を癒すためか巻子への想いを募らせて楊貴妃図を描いている。
  6. ^ 他に山口管山・塘宅山・関藍梁大窪詩仏巻菱湖・小山靄外・大竹蔣塘・相沢石湖・山内香雪など
  7. ^ のちに菊池家が経営する東海銀行(名古屋の東海銀行とは別の銀行)の名の由来となる

出典

  1. ^ 田代善吉『宇都宮市史』下野史談会、1928年、p.348。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 一九世紀宇都宮の商家同族団: 古着商人の家史・家法から 寺内由佳、お茶の水史学 58 41-87, 2015-03 お茶の水女子大学文教育学部人文科学科比較歴史学コース内読史会
  3. ^ 佐藤温「豪商大橋淡雅における文事と時局」
  4. ^ a b c d e 佐野屋の起源と勃興菊池家文書館
  5. ^ 菊池長四郎『人事興信録』初版 明治36(1903)年4月
  6. ^ a b 菊池長四郎(きくちちょうしろう)・3代 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
  7. ^ 菊池長四郎『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年

参考文献

  • 長嶋元重・稲木宏済・雨宮義人共編 「下野幕末の文人画人」下野文人・画人実行委員会、1984年(昭和59年)



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