国内の整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:48 UTC 版)
345年1月、慕容皝は牧牛を貧しい家に与えて田畑を耕させ、その収穫の八割を搾取した。また、牛は持っているが土地を持たない者にも田畑を耕させ、収穫の七割を搾取した。記室参軍封裕はこれに反対して上表し、租税軽減を訴えると共に、増えすぎた官員の削減、3年学んでも成果が上がらない学生や定員を超える職人・商人を農民に戻して農耕・養蚕に力を入れる事、宇文部・段部から移住させた諸部族を都近郊から遠ざける事、忠臣である参軍王憲・大夫劉明を復職させ(彼らは慕容皝の不興を買って罷免されていた)、佞臣である右長史宋該らを排斥するよう求めた。慕容皝はこれに同意して詔を下し、苑囿(皇帝が所有する広大な庭園)を廃止して田畑を持たない百姓に与え、自ら生活が出来ない者には牧牛1頭を与え、公田を開墾しようと望む者には魏晋の旧法に依拠して搾取の比率を決め、また灌漑事業にも力を注がせた。ただ、官員削減については中原を平定するまでは保留とし、職人・商人については定員を定めてそれ以上となった場合は農民に戻し、学生で成果が上がらない者も退学とした。また、今後も自らの政策に誤りがあった場合は貴賤の区別なく発言するよう内外に示した。 慕容皝はかねてより学業に力を注いでいたが、次第に学生の数が多くなり、この頃には遂に千人余りに達し、明らかに能力が達していない者も増えていた。その為、封裕はこの事についても諫言したのであった。 2月、慕容皝は領内に大赦を下し、新しく完成した宮殿を和龍宮と名付けた。 同月、大臣の子弟を学生として教育を受けさせ、彼らを高門生と呼称した。また、かつて宮殿があった場所に新たな東庠(東の学び舎)を建てると、郷射の礼(一般の者から才覚有る者を取り立てる行為)を行い、その中から優秀な者を学生として迎えた。 10月、慕容皝は古の諸侯が即位した際に元年と称した事に倣い、東晋の元号を用いるのを止め、燕王12年(慕容皝が位を継いだ333年を起点とする)と称するようになった。 11月、度遼将軍慕容恪が高句麗の南蘇を攻め、これを陥落させた。その後、守備兵を置いてから帰還した。 同月、後趙の将軍鄧恒は数万の兵を擁して楽安に駐屯し、徒河を攻め取らんとしていたが、徒河を守る平狄将軍慕容覇を恐れ憚って遂に攻め入る事は無かった。 346年1月、慕容皝は世子の慕容儁・度遼将軍慕容恪・折衝将軍慕輿根・広威将軍慕容軍の4将に騎兵1万7千を与え、夫余の討伐に向かわせた。この戦いで夫余を滅ぼし、夫余の玄王と部落5万人余りを捕らえてから帰還した。慕容皝は玄王を鎮軍将軍に任じ、自らの娘を玄王に娶らせた。 347年1月、慕容皝は自ら東庠に臨んで学生を試験すると、その中で経書に精通した者を近侍として抜擢した。 5月、東晋より使者が到来し、慕容皝は安北大将軍に昇進した。また、それ以外の官爵についてはこれまで通りとされた。 この年、長期に渡って旱魃が続いたので、百姓に租税を戻した。 また、成周・冀陽・営丘などの郡を廃止し、勃海の人を興集県に、河間の人を寧集県に、広平と魏郡の人を興平県に、東萊と北海の人を育黎県に、呉の人を呉県に集め、全て前燕の統治下とした。
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