国内の改革と対外拡張
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「ベーラ3世 (ハンガリー王)」の記事における「国内の改革と対外拡張」の解説
ベーラの招きに応じて、フランスのシトー会の修道士がハンガリーを訪れ、1179年から1184年の間にジルク(英語版)、セントゴッタールド(英語版)、ピリス山地(英語版)などの土地にシトー会の修道院が新設された。1180年代に入るとベーラは威厳のある王城とエステルゴムの新たな大聖堂の建設を開始し、常に国内を巡察していた。Bulkeszi(現在のセルビアのMaglić)で発見された碑文には、ベーラがこの村に誘致されたドイツ人移住者の名付け親になったことが記されている。 ベーラはコンスタンティノープルの宮廷でよく組織化された行政機構の重要性を学んでいた。『彩飾年代記(英語版)』には、ハンガリーがローマ帝国の宮廷で慣例的に使用されていたものと同一の形式の訴状を導入したことが記されており、これはベーラの治世に王室裁判所が独立した行政機関として機能し始めたことを示している。ベーラは筆記の重要性を強調し、1181年に自分の面前であらゆる特許状を書き残すように命令した。 1180年9月24日にマヌエル1世が没し、この事件から6か月以内にベーラはダルマチアの宗主権を回復するが、この出来事についての同時代の詳細な記述は確認されていない。13世紀のスプリトの聖職者トマスは、マヌエル1世が没して間もなくスプリトの住民は「ハンガリーの支配に帰した」ことを記している。1181年初頭にはザダルもベーラの宗主権を受け入れた。ハンガリーの拡張に対する東ローマ帝国の反応について、史学者のジョン.V.A.ファインはアドリア海沿岸部にヴェネツィア共和国が進出するよりもハンガリーの支配下に置かれたほうが良いと東ローマ側は判断したと推測し、著書の中で「表面上は血を流さず、帝国の同意の上で」ハンガリーはダルマチアの宗主権を回復したと記している。 ハンガリーがシルミウムを奪回した経緯についても不明瞭な点がある。アンドロニコス・コムネノスは、皇帝アレクシオス2世の母マリアが彼女の義理の兄弟であるベーラを扇動して1182年5月にベオグラードとブラニチェヴォを含む地域を攻撃させたと非難したが、アンドロニコスの発言は当時ハンガリーがシルミウムを占領していたことを示唆している。 同月にアンドロニコスはマリアを逮捕し、年末には彼女を殺害する。ベーラは東ローマ帝国の無政府状態に乗じて1183年前半にニシュとセルディカに進出し、セルディカでは聖遺物であるリラの聖イヴァンの棺を押収し、「盛大な儀礼を催してハンガリーに護送し、敬意をもってエステルゴムの教会に安置する」ことを命令したことが記録されている。Makkはベーラがドナウ川以南の地域から撤退したと記しているが、反対にポール・スティーブンソンはベーラがそれらの土地を保有し続けたと主張している。 1183年末にアンドロニコス・コムネノスはアレクシオス2世を殺害する。アンドロニコスと敵対する勢力はベーラを含む多くの君主にアンドロニコスへの攻撃を促す書簡を送り、1185年初頭にハンガリー軍が東ローマ領に侵入したことが伝えられている。1183年9月にアンドロニコスが廃位された後、ベーラは新たに皇帝となったイサキオス2世との間で和平条約に調印する。イサキオス2世はベーラの娘マルギトと結婚し、ベーラは娘の婚資としてニシュとブラニチェヴォを含む地域を東ローマに譲渡し、リラの聖イヴァンの棺もセルディカに返還された。1186年2月にベーラはフランス王フィリップ2世の娘マルグリットと結婚する。 1187年にザダルはヴェネツィア共和国のドージェ・オリオ・マストロピエノの包囲を受けるが、ヴェネツィアの艦隊は防備を固められた町を陥落させることができなかった。1188年末にボヤール(貴族)の反乱に遭ったガーリチ(ガリツィア)公ウラジーミル・ヤロスラヴィチがハンガリーに亡命する。ガリツィアはヴォルイニ公ロマン・ムスティスラーヴィチの支配下に入るが、ロマンはガリツィアに侵入したハンガリー軍の攻撃を受けて退却した。ロマンが敗れた後もウラジーミルの地位は回復されず、ベーラは彼を投獄し、息子のアンドラーシュをガリツィアの統治者に任命する。ガリツィア征服の象徴として、ベーラはガリツィア王の称号を加えた。 1187年夏に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が指揮するドイツの十字軍がハンガリー国内を通過した。ベーラはフリードリヒを歓待し、バルカン半島を通過する十字軍を護衛するために軍隊を派遣した。また、ベーラはフリードリヒの要求に応じて獄中のゲーザを釈放し、ゲーザはハンガリーを出国して十字軍に参加する。バルカン半島を進軍するドイツ十字軍と東ローマ帝国との関係は悪化し、半ば戦争状態に突入していたが、ベーラの仲介によってフリードリヒとイサキオス2世は和約を結んだ。 1189年/1190年の初めにウラジーミル・ヤロスラヴィチが脱獄し、ウラジーミルはポーランド大公カジミェシュ2世の力を借りてアンドラーシュをガリツィアから追放し、公国の支配を回復した。1191年にベーラはフィリッポポリス(現在のブルガリアのプロヴディフ)とシルミウムで娘婿のイサキオス2世と会談を行うが、交渉の結果は不明である。1192年に教皇庁はベーラからの働きかけを受けてハンガリー王ラースロー1世を列聖する。1193年初頭にハンガリー軍はセルビアに侵入するが、イサキオス2世は武力の行使を暗示してハンガリー軍の撤退を要求した。同時期にヴェネツィア共和国のドージェ・エンリコ・ダンドロはザダルの占領を試みるが、二度目の攻撃も失敗に終わる。また、1193年にはクロアチアの貴族フランコパン家(英語版)の一員であるクルクのバルトロメウにモドルシュ郡を授与している。
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