聖遺物
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聖遺物(せいいぶつ、羅: Reliquiae、英: Relic)は、キリスト教の教派、カトリック教会において、イエス・キリストや聖母マリアの遺品、キリストの受難にかかわるもの、また諸聖人の遺骸や遺品をいう。これらの品物は大切に保管され、日々の祭儀で用いられてきた。聖遺物のうち聖人の遺骸については、正教会での不朽体に相当する。古代から中世において、盛んに崇敬の対象となった。
- ^ 17世紀にはルーアンの聖職者マチュー・ド・ラロック Matthieu de Larroque (1619-1684) が著した『聖体拝領の歴史』(1671年)には「10世紀以来聖別(パンと葡萄酒をキリストの血と肉へと変える聖変化)の儀式に必要とされる手順は増加し」、それは当時の典礼定式書に記載されている通りとなったと書かれている。そしてその記述によれば「司祭はミサにおける聖体の聖別を執り行う前日に、すべての聖遺物を聖別を行う祭壇の中に安置しなければならない」とある (M. de Larroque, Histoire de l'Eucharistie, divisée en trois parties, dont la première traite de la forme de la célébration, la seconde de la doctrine, et la troisième du culte. Seconde édition, revue et corrigée, Amsterdam 1671, p. 80-81.)。
- ^ 柏木 2015, pp. 191–194, 204–212.
- ^ この聖遺物略奪正当化の論理はアルビジョア十字軍が緒戦においてかかげた「神はおのれの者を知りたまう(異端者でないものは神がお守りになるはずである。ゆえに十字軍は相手が異端者であるかどうか気にする必要はない)」に通じる論理であるといえる。
- ^ A. J. Andrea, B. E. Whale, B. E. Whale, Contemporary Sources for the Fourth Crusade, Leiden, 2000, p. 226.
- ^ KONRAD von Krosigk († 1225)(ドイツ語) – Biographia Cisterciensis
- ^ Martin of Pairis(英語) - The Crusades
- ^ Jerome, Ad Riparium, i, P.L., XXII, 907.
- ^ The Catholic Source Book A Comprehensive Collection of Information about the Catholic Church ISBN 0-15-950653-0
- ^ “The ''Code of Canon Law''”. Vatican.va. 2013年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年3月4日閲覧。
- ^ “Venerating Relics at Mass”. 2018年5月22日閲覧。
聖遺物
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「律者のコア」の類似物質によって駆動する汎用武器の総称で、前文明期のもの。「神の鍵」には満たないものの、その力は現代の科学力をはるかに上回る。
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聖遺物
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聖遺物は、現在ローマのバシリカ内にあると主張がされている(367年にローマ教皇ダマスス1世が建てたバシリカ・アポストロルム)。この場所には、聖ペテロと聖パウロの仮の墓があるところである。教会は現在、サン・セバスティアーノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂と呼ばれている(建物は1610年代にシピオーネ・ボルゲーゼの後援で再建されたもの)。
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聖遺物
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「サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂」の記事における「聖遺物」の解説
教会内の聖遺物礼拝堂には、次のような聖遺物が納められている。 イエスが架けられた聖十字架の木片 イエスが架けられた聖十字架に取り付けられていた札(十字架の札(英語版)) イバラの冠(英語版)の2本の棘
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聖遺物
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聖遺物
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「Dies irae -Also sprach Zarathustra-」の記事における「聖遺物」の解説
本作における聖遺物(AhnenErbe)は、過去の聖人の遺品のことではなく、人間の思念を吸収することにより自らの意思を持ち、絶大な力を持つようになったアイテムの総称である。 聖遺物を扱うためには、メルクリウスの組み上げた複合魔術「永劫破壊(エイヴィヒカイト、die Ewigkeit)」と呼ばれる理論が必要である。これは発動に人間の魂を必要とし、使うには常に人間を殺し続けねばならない。殺せば殺すほど強くなっていき、殺した数に相当する霊的装甲を常に纏うようになる。しかし魂にも質が存在し、単純な量だけではなく、戦士や殺すことを躊躇する相手の魂ほど質が高く、質と量の両面を兼ね備えるほど効率的に強化される。エイヴィヒカイトを操る者は聖遺物によってしか倒せず、それ以外の手段での攻撃は一切通じない。聖遺物による攻撃は、物理的・霊的の両面でなければ防げない。また、喰らった魂に相当する生命力を得ているため、仮に肉体的損傷を受けてもすぐさま再生される。聖遺物を破壊されない限り、エイヴィヒカイトの使い手は不老不死であるが、逆に聖遺物が破壊された使い手は死亡する。しかし、これらの特性はエイヴィヒカイトの副次的作用に過ぎず、本来のエイヴィヒカイトがどのようなもので、何を目的として作られたのかは、生みの親であるメルクリウス以外誰も知らない。 エイヴィヒカイトには活動(Assiah)・形成(Yetzirah)・創造(Briah)・流出(Atziluth)という4つの位階(Degree)が存在し、位階が上がるごとに戦闘能力も飛躍的に増大していく。位階が1つ違えば、その戦闘力は次元違いになる。聖槍十三騎士団に属する者たちは、ほぼ全員が第3段階である「創造」の位階にまで達している。エイヴィヒカイトの使い手はほぼ全て、能力を発動する際にその能力や渇望に則した戯曲の一節などを詠唱する。エイヴィヒカイトの強さは聖遺物の歴史ではなく、いかに多くの魂を取り込んだかということと、それを操る術者自身の力量による。なお、エイヴィヒカイトの位階は本来既存のいかなる体系とも異なるが、欧州人が多い騎士団の性質を考慮して便宜上、クリスチャン・カバラのセフィロト四層概念が使用されている。
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聖遺物
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イエスと弟子たちの最後の晩餐に使われたものと信じられている聖杯はいくつか存在する。 エルサレム近くの教会にあったとされるもの7世紀、ガリアの僧(Arculf)が聖地巡礼のさいに、エルサレム近くの教会でそれを見て、触れたと証言している。銀でできており、把っ手が2つ対向して付いていたという。現在の所在は不明。 ジェノヴァ大聖堂にあるもの (sacro catino)1101年にカイサリアで発見されたと伝えられる。対角37cmの6角形で、杯よりも鉢に近い。エメラルドでできていると信じられていたが、ナポレオン・ボナパルトがイタリアを占領したときパリに運ばれ、後に返還されたときには割れており、緑色のガラスであることが分かった。ウォラギネの『黄金伝説』(13世紀)で触れられていたものと思われている。 バレンシア大聖堂にあるもの (santo cáliz)イエスの弟子ペトロがローマに持込むが、弾圧の危険に聖杯はいったんピレネーに難を逃れる。その後スペイン内を転々とした後バレンシアに持ち込まれたと伝えられる。直径9cmの半球状、高さ17cm。暗赤色のメノウでできている。1960年にスペインの考古学者(Antonio Beltrán) は、紀元前4世紀から1世紀にエジプトかパレスチナで作られたもので、時代的に合うと主張した。 メトロポリタン美術館にあるもの (Antioch Chalice)1910年にアンティオキアで発見された。外側は鋳物で装飾が施され、内は銀の2重構造になっている。聖杯ではないかとの触れ込みで、1933年のシカゴ万国博覧会(第2回)で展示された。その後の研究によれば、6世紀にアンティオケイアで作られたものとされる。杯ではなく教会で照明用に使われたものと思われる。
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聖遺物
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「ニザームッディーン廟」の記事における「聖遺物」の解説
ニザームッディーン廟には、 預言者ムハンマドの聖髭 預言者の父方従弟で娘婿でもあるアリーの書写したクルアーンの革表紙断片 680年にウマイヤ朝第2代カリフのヤズィード1世によって虐殺されたフサイン(アリーとファーティマの子)の鮮血を吸い込んだカルバラーの土塊 預言者ムハンマドの足跡 の聖遺物が4点保管されている。いずれも、預言者ムハンマドとその縁者にかかわる聖遺物である。1.2.3.は、いずれも成人の胸ほどの高さに固定された台座の上に、ショウケースに収納されて安置されており、普段、それぞれのケースにはベルベット地の布が掛けられ、聖遺物そのものは隠されている。4.は、ショウケースを乗せた台座の下に置かれ、清めのため、バラ水を湛えたバケットと水瓶が脇に用意されている。これら聖遺物は、ヒジュラ暦3月にひらかれる預言者祭の際に一般公開される。
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聖遺物
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「サンタンヌ・ド・ボープレ大聖堂」の記事における「聖遺物」の解説
ボープレに派遣されたケベック司教フランソワ・ド・ラヴァルの依頼により、非常に重要な聖遺物である聖アンナの指の骨が、1670年3月12日の聖人崇敬日に初めて公開された。その後、聖アンナの他の聖遺物が3つ追加され、1892年には、タシュローにより、長さ4インチの聖アンナの手首の骨が奉納された。
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聖遺物
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「ビテュニアのマリーナ」の記事における「聖遺物」の解説
マリーナの聖遺物は1230年にコンスタンティノープルからヴェネツィアの聖マリーナ教会に移された。のちにいくつかの聖遺物はパリ教区の教会に移され、保管されている。
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聖遺物
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ヤコボスの頭の骨は1103年にフランスのトゥール司教区に運ばれ、1440年頃バチカンに移されたと伝えられている。
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聖遺物
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ディオクレティアヌスによるキリスト教徒への迫害が終わると、エウフェミアの聖遺物は黄金の棺に納められ、エウフェミアを讃える為に建設された教会に置かれた。数世紀に渡り多くの巡礼者がこの教会を訪れた。 617年にはホスロー1世によりペルシア帝国がカルケドンを征服していた。その為、620年頃にコンスタンティノープルの新しい教会に聖遺物が移された。 聖像(イコン)崇敬派への迫害の中で、エウフェミアの聖骨箱は海に投げ込まれたと伝えられたが、正教会派で船の持ち主であった二人の兄弟によって回収され、地元の司教によって隠された。後にレムノス島に運ばれ、796年にはコンスタンティノープルに戻された。現在のところ、聖エウフェミアの主な聖遺物はイスタンブールにある聖ゲオルギオス大聖堂に存在する。 また、聖エウフェミアの棺があるとされるロヴィニの聖エウフェミア教会に掲げられている刻板には次のように記されている。 この古い大理石の棺には殉教聖人の遺体が納められています。はじめはクロアチアで、次にコンスタンティノープルで800年まで守られてきました。しかし偶像破壊主義者たちの支配力が増す中で、聖人の遺骸が汚される恐れがありました。敬虔なる伝説によると、いつしかコンスタンティノープルから聖骨箱は姿を消し、800年7月13日にロヴィニの海岸にたどり着きました。 それからずっとこの場所で棺は守られ続けています。 — 刻板(抜粋、意訳)、ロヴィニの聖エウフェミア教会 「正教会の歴史#イスラム教の台頭と聖像破壊論争」も参照
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