イスラム教の台頭と聖像破壊論争
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「正教会の歴史」の記事における「イスラム教の台頭と聖像破壊論争」の解説
7世紀にイスラム教が成立すると、アンティオキア、アレクサンドリア、エルサレムの三主教座を含む地域はイスラム教徒の支配域に入った。キリスト教徒は信仰を許されたものの、ズィンミーとして厳しい差別と抑圧を受けた。これにより、キリスト教圏に残った総主教庁はローマとコンスタンティノープルだけとなり、ローマ皇帝(東ローマ帝国皇帝)の座所でもあるコンスタンティノープル教会の権威が強くなった。 7世紀末から8世紀前半にかけて起こった聖像破壊運動(イコノクラスム)の原因については、神学面・政治面などの様々な要因が絡んで起きた事件と言える。 神学面では様々な要因があるが、まずイスラームの影響が挙げられる。イスラム教は、礼拝に像を用いることを厳しく禁じた。このため礼拝に聖像を用いるキリスト教を偶像崇拝であると非難した。この非難はイスラム教徒から始められたものであったが、偶像拒否はキリスト教の教義にもあり、小アジア(現在のトルコ南部)を中心に一部のキリスト教理論家は礼拝から一切の像を退けるべきだと考えるにいたった。8世紀に入りこの主張は公然となされるようになり、大規模な聖像破壊運動に発展した。聖像破壊主義は伝統的な聖像崇敬と衝突するため教会を二分する論争になった。 政治面では、修道士はイコン崇敬を実践また奨励したのみならず、修道院は聖像制作の場であった。修道院の帝国における影響力は絶大であり、皇帝は脅威を感じていた。聖像破壊運動は聖像崇敬そのものに対する大きな打撃となった。聖像破壊運動が及んでいなかった西方教会に助けを求め、西方に逃亡した聖職者・修道士たちもいた。 皇帝レオーン3世は聖像破壊主義を支持し、726年聖像破壊令を出した。レオーン3世と息子のコンスタンティノス5世は2代に渡って聖像破壊主義を取り、反対者を追放あるいは投獄し、あるいはその拠点である修道院を没収した。これに対し一般信徒、ことに首都コンスタンティノープルや帝国のヨーロッパ側では聖像破壊運動をほとんど支持せず、修道士や信徒などは広範な抵抗をみせ、反乱が起きた地方もあった。 787年、皇后エイレーネーは事態を収拾するため第七全地公会を召集した。全地公会は聖像使用の教義を確認し、聖像破壊主義を否定した。正教会は第七全地公会議を大斎第一主日を「正教勝利の主日」と名付けて記憶し、教義に関する重要な確認がなされた公会議と捉えている。なお、第七全地公会議は正教会が有効と看做す最後の全地公会議である。
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