イスラム教の台頭と聖像破壊論争とは? わかりやすく解説

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イスラム教の台頭と聖像破壊論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 23:59 UTC 版)

正教会の歴史」の記事における「イスラム教の台頭と聖像破壊論争」の解説

7世紀イスラム教成立すると、アンティオキアアレクサンドリアエルサレムの三主教座を含む地域イスラム教徒支配域に入ったキリスト教徒信仰許されたものの、ズィンミーとして厳し差別抑圧受けた。これにより、キリスト教圏残った総主教庁ローマコンスタンティノープルだけとなり、ローマ皇帝東ローマ帝国皇帝)の座所でもあるコンスタンティノープル教会権威強くなった。 7世紀末から8世紀前半にかけて起こった聖像破壊運動イコノクラスム)の原因については、神学面・政治面どの様々な要因絡んで起きた事件と言える神学面では様々な要因があるが、まずイスラーム影響挙げられるイスラム教は、礼拝に像を用いることを厳しく禁じたこのため礼拝聖像用いキリスト教偶像崇拝であると非難した。この非難イスラム教徒から始められたものであったが、偶像拒否キリスト教教義にもあり、小アジア現在のトルコ南部)を中心に一部キリスト教理論家礼拝から一切の像を退けるべきだと考えるにいたった8世紀入りこの主張公然となされるようになり、大規模な聖像破壊運動発展した聖像破壊主義伝統的な聖像崇敬衝突するため教会二分する論争になった政治面では、修道士イコン崇敬実践また奨励したのみならず修道院聖像制作の場であった修道院帝国における影響力絶大であり、皇帝脅威感じていた。聖像破壊運動聖像崇敬そのもの対す大きな打撃となった聖像破壊運動及んでいなかった西方教会助け求め西方逃亡した聖職者修道士たちもいた。 皇帝レオーン3世聖像破壊主義支持し726年聖像破壊令を出したレオーン3世と息子のコンスタンティノス5世2代渡って聖像破壊主義取り反対者追放あるいは投獄し、あるいはその拠点である修道院没収した。これに対し一般信徒、ことに首都コンスタンティノープル帝国ヨーロッパ側では聖像破壊運動をほとんど支持せず、修道士信徒などは広範な抵抗をみせ、反乱起きた地方もあった。 787年皇后エイレーネー事態収拾するため第七全地公会召集した全地公会聖像使用教義確認し聖像破壊主義否定した正教会第七全地公会議大斎第一主日を「正教勝利主日」と名付け記憶し教義に関する重要な確認なされた公会議捉えている。なお、第七全地公会議正教会が有効と看做す最後全地公会議である。

※この「イスラム教の台頭と聖像破壊論争」の解説は、「正教会の歴史」の解説の一部です。
「イスラム教の台頭と聖像破壊論争」を含む「正教会の歴史」の記事については、「正教会の歴史」の概要を参照ください。

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