住吉・天王寺の戦いとは? わかりやすく解説

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住吉・天王寺の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 14:22 UTC 版)

楠木正行」の記事における「住吉・天王寺の戦い」の解説

幕府側は、細川顕氏佐々木氏頼の軍に、山名時氏大友氏泰の軍を増援として送り本腰を入れて南朝討伐することに決定した9月21日足利直義御教書命令文)を発し南朝討伐呼びかけた(『野上文書諸家文書纂十所収大友氏泰書状貞和3年10月15日))。島津播磨家の武将島津忠兼も時氏の傘下として戦うように命じられた(『嶋津文書』二「色川本」)。10月1日、時氏らは楠木氏本拠である東条大阪府富田林市南東端)を制圧目標として発向した(『師守記』)。 ところが、東条制圧という大きな目標を掲げた割には特段大きな戦い起きないまま、一ヶ月以上が過ぎた10月半ばには、氏泰が野上資親に討伐軍への参集命じるなどしている(『野上文書前掲文)。藤田精一は、この遅々とした行動について、幕軍は正行極度に警戒していたからではないか推測している。 両軍睨み合いが続く中、正平2年/貞和3年11月26日1347年12月28日)、ついに住吉・天王寺の戦いの火蓋切られた。住吉大阪市住吉区住吉)および天王寺大阪府大阪市天王寺区南部から阿倍野区北部)で両軍激突幕府第一軍大将である細川顕氏は、大した戦いもしないまま遁走した。幕府第二軍大将である山名時氏はしばらく踏みとどまったが、数人の弟を殺され自身と息子(山名師義)も手傷を負うという壊滅的な被害を受け、ついに撤退した『太平記』ではやはり長い物語があるが、史料では以下のような簡潔な記録しかなく、詳細な戦闘経過不明である。しかし、藤田精一下記師守記』の後半部分を特に指摘し、この出来事北朝に非常な衝撃与えたのは確かであるとしている。 『和田文書』和田助氏軍忠状」「一 同十一月廿六日住吉天王寺両所合戦、進先陣致忠功畢、」 『園太暦』「〔河州凶徒出張合戦事〕十一月廿七日天晴今朝彼是云、昨日河州凶徒襲来天王寺堺浦合戦陸奥守顕氏不及幾合戦引退、前伊豆守時氏、尽心相戦、終舎弟両三同所打死、時氏父子被疵引退武家騒動云々、」 『師守記』九「十一月廿七日乙丑天晴今朝昨日天王寺住吉合戦、自南方押来云々軍勢悉引京都云々今夕打死并被疵輩不知云々、以外事也、為之如何、」 また、14世紀後半編纂された『尊卑分脈』によれば戦死した時氏の舎弟のうち一人三河守山名兼義という人物だったという。 なお、延元5年/暦応3年1340年2月後村上天皇河内国小高瀬荘を観心寺引き渡す綸旨命令)を下していたが、正行この年12月15日になってやっと、同国守護代和田左衛門尉命じ7年ごしでこの綸旨施行している。顕氏を破って同国平定したことで、国内の整備着手できるようになった考えられる生駒孝臣は、一瞬ではあるが12月正行にとって平和を過ごすことが出来た時期だったかもしれないとしている。

※この「住吉・天王寺の戦い」の解説は、「楠木正行」の解説の一部です。
「住吉・天王寺の戦い」を含む「楠木正行」の記事については、「楠木正行」の概要を参照ください。

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