佐渡一国騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/23 15:38 UTC 版)
広恵倉は官営専売機関として莫大な利益を上げたが、文政9年(1826年)利益を鉱山等他事業に流用し、文政10年(1827年)年貢減免を訴える農民に対し蔵米を購入して納付させ、天保2年(1831年)地役人自身は褒賞を受け取るなどしたため、非特権商人や農民から「不益の御倉」として反感を買った。 天保9年(1838年)佐渡一国騒動において義民中川善兵衛が幕府巡見使に広恵倉の廃止を訴えると、12月広恵倉の責任者として揚屋に留置され、天保10年(1839年)3月江戸浅草の揚屋に護送され、5月奉行篠山景徳邸に移された。 天保11年(1840年)6月19日蔵米を時相場で売って銀山事業に流用した罪で評定所により押込50日を言い渡され、7月新任奉行川路聖謨と帰郷した。9月10日満期となって復職し、天保12年(1841年)3月学問所、12月孔子廟を再建した。 弘化2年(1845年)5月3日病没し、下寺町法然寺に葬られた。諡号は弘道先生、法号は白蓮社遺誉水月居士。墓碑は遺言により修教館に向けて建てられた。
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