三方領知替え
三方領知替え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 13:49 UTC 版)
天保11年(1840年)、8代・忠器の時に藩に危機が訪れる。財政が好転し、また実収が20万石ともそれ以上ともいわれる庄内に目をつけたのが武蔵川越藩主・松平斉典である。当時川越松平家は度重なる転封で莫大な借財を抱え、また水害等で藩領内が荒廃して財政が逼迫していた。そこで、内実の豊かな庄内への転封を目論んだ。斉典は11代将軍・家斉の第二十一子・紀五郎(のちの斉省)を養子に迎え、養子縁組のいわば引き出物として、当時、大御所となっていた家斉に庄内転封を所望した。このため、松平を川越から庄内へ、庄内の酒井を越後長岡へ、長岡藩の牧野忠雅を武蔵川越へという「三方領知替え」という計画が持ち上がった。 これに対し、天保12年1月20日(1841年2月11日)庄内藩の領民は江戸へ出向き幕府に領知替え取り下げを直訴した。この行動は本来ならば死罪である。また従来、領民の直訴といえば藩政の非を訴えるものであるが、領民による藩主擁護の行動は前代未聞であり、逆に幕府役人より賞賛された。同年7月12日(8月28日)、徳川家斉・斉省の死去も伴い幕命は撤回となった。この三方領知替えの撤回は、後に印旛沼堀割工事の際に、懲罰的な御手伝普請を庄内藩が強いられる遠因となった。 詳細は「天保義民事件」を参照 なお、藤沢周平の小説『義民が駆ける』は、この三方領知替えを農民の立場から描いた作品である。
※この「三方領知替え」の解説は、「庄内藩」の解説の一部です。
「三方領知替え」を含む「庄内藩」の記事については、「庄内藩」の概要を参照ください。
- 三方領知替えのページへのリンク