三方領知替えとは? わかりやすく解説

三方領知替え

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/26 06:52 UTC 版)

三方領知替え(さんぽうりょうちがえ)は、江戸時代江戸幕府が行った大名に対する転封処分の手法のひとつ。大名3家の領地(知行地)を互いに交換させることを言う。例えば、領地aを持っている大名家Aを領地bへ、領地bを持っている大名家Bを領地cへ、領地cを持っている大名家Cを領地aへ同時に転封すること。「三方領地替え」「三方所替え」「三方国替え」とも書く。江戸時代を通じて何回か行われている。4家が関係した「四方領知替え」の例もある。




「三方領知替え」の続きの解説一覧

三方領知替え

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 13:49 UTC 版)

庄内藩」の記事における「三方領知替え」の解説

天保11年1840年)、8代・忠器の時に藩に危機訪れる。財政好転し、また実収20万石ともそれ以上ともいわれる庄内に目をつけたのが武蔵川藩主松平斉典である。当時川越松平家度重なる転封莫大な借財抱え、また水害等で藩領内が荒廃して財政逼迫していた。そこで、内実豊かな庄内への転封目論んだ。斉典は11代将軍・家斉第二十一子・紀五郎(のちの斉省)を養子迎え養子縁組のいわば引き出物として、当時大御所となっていた家斉庄内転封所望した。このため松平川越から庄内へ、庄内酒井越後長岡へ、長岡藩牧野忠雅武蔵川越へという「三方領知替え」という計画持ち上がった。 これに対し天保12年1月20日1841年2月11日庄内藩領民江戸へ出向き幕府領知替え取り下げ直訴した。この行動は本来ならば死罪である。また従来領民直訴といえば藩政の非を訴えるものであるが、領民による藩主擁護行動前代未聞であり、逆に幕府役人より賞賛された。同年7月12日8月28日)、徳川家斉・斉省の死去伴い幕命撤回となった。この三方領知替えの撤回は、後に印旛沼堀割工事の際に、懲罰的御手伝普請庄内藩強いられる遠因となった詳細は「天保義民事件」を参照 なお、藤沢周平小説義民が駆ける』は、この三方領知替えを農民立場から描いた作品である。

※この「三方領知替え」の解説は、「庄内藩」の解説の一部です。
「三方領知替え」を含む「庄内藩」の記事については、「庄内藩」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「三方領知替え」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「三方領知替え」の関連用語

三方領知替えのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



三方領知替えのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの三方領知替え (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの庄内藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS