三日天下とは? わかりやすく解説

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みっか‐てんか【三日天下】

読み方:みっかてんか

明智光秀織田信長倒して天下をとってから、わずか13日後に豊臣秀吉滅ぼされたところから。「みっかでんか」とも》きわめて短い間だけ権力握ること


三日天下

読み方:みっかてんか

  1. 全盛の短いことをいう、三日だけ天下を取つたの意。
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三日天下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 22:20 UTC 版)

王允」の記事における「三日天下」解説

王允殊勲者の呂布を奮威将軍任じ、温侯に封じたまた、董卓残党狩り行なって董卓一族皆殺しにし、董卓と見られる官僚らを粛清した。その中には文人として名高い蔡邕もいた。 しかし呂布はじめとする多くの者が、旧董卓軍涼州兵たちを特赦するよう提案したが、王允は「年に二回特赦を出すことは慣行に背く」と拒否し追放決定した。さらに呂布らが、董卓財産協力した兵たちに賞与として分け与えるよう提案したが、王允はこれも拒否した。また董卓厚遇されていた蔡邕が恩を感じ董卓死に嘆き悲しんでいた事に対して投獄し獄中歴史書編纂行おうとした事に対しても、死罪をもって対応したこのような固定観念囚われ融通利かない対応が、後に自らの首を絞めることになっていく。さらに王允かねてから呂布軽視し呂布自分功績を誇ることが多かったため、両者の仲は次第悪化していったという。 董卓部下であった李傕郭汜涼州出身者降伏願い出たが、前述のように王允は許さなかった。このため同年6月李傕郭汜らが賈詡助言により都に攻め入ると、王允反発した胡軫楊定の裏切りもあり、王允呂布らは敗北した敗れた呂布撤退時に王允同行誘ったが、王允は .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「国家安定が、私の願いでした。これが達成されないとあれば命を捨てるまでのことです。朝廷では幼い陛下が私だけを頼りにしているのです。この期に及んで一人助かるなどとは、とても私にはできません。どうか関東諸侯よろしくお願いします。天下のことを忘れないようにと、お伝えください」と処刑される覚悟で、長安残った呂布破った李傕らは長安侵入し董卓暗殺加担した有力者らを次々と殺害献帝避難所迫った献帝李傕らを詰問したが、李傕らは「陛下に忠を尽くし董卓暗殺復讐をしたまでのことです。終わり次第、罪を受けます」と弁明した行き場失った王允逮捕・処刑された。齢57また、子らをはじめ一族皆殺しとなり、全員晒し首となった長安人々は、老若男女問わず全員が涙を流したという。後に許都移った献帝は、その忠節思い殯(もがり)を改め葬ると、司徒印綬郷里の郡へ送った。孫の王黒が安楽亭侯に封じられた。彼の墓は現在許昌市郊外にある。 宋の范曄は「王允董卓推戴して権力分担したのは董卓の隙を伺うためであり、知る者はその本意が(帝への)忠誠にあった知っていた」と評している。また同伝賛は「難に図って心を晦まし節を傾けた。功は全うすれどもは元は醜く残党を残すことになった」と述べている。

※この「三日天下」の解説は、「王允」の解説の一部です。
「三日天下」を含む「王允」の記事については、「王允」の概要を参照ください。


三日天下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 00:27 UTC 版)

甲申政変」の記事における「三日天下」解説

開化派クーデタ対し閔氏側の右議政沈舜沢清国軍の出動国王閔妃救出要請した清国軍は当初出動ひかえていたが、これは、高宗日本公使保護命じていたことと、日清両軍衝突による混乱避けるためであった。しかし、事態進展はそれを許さず清国軍を統括していた呉兆有が袁世凱らと協議した結果12月6日、兵を率いて昌徳宮に入ることを決めた袁世凱国王への拝謁求めたが、金玉均袁世凱拝謁当然ながら許されるが兵を率いて入ることは許されない応答した午後2時すぎ、呉兆有が500名を率いて宣仁門から、袁世凱800名を率いて敦化門から攻撃開始し午後3時ころから日清間で銃撃戦始まった。このとき、袁世凱攻撃目標日本兵ではなくあくまでも反乱者たちであるという名目立てている。王宮護衛の職にあった朝鮮政府軍兵士400名は経験浅く武器も不十分であったため、宣仁門を守っていた兵士一斉に逃亡他の場所でも至る所でくずれ、清国軍に合流する者もあらわれた結果として日本軍150名だけで清国兵1,300名と戦わざるをえなかった。しかし、日本兵奮戦し日本側の犠牲者死者1名、負傷者4名であったのに対し清国軍の戦死者53名を数えた多く清国兵士気勢をあげて威嚇するのみで、交戦避けて王宮各所放火略奪行為走ったとはいえ広大な昌徳宮防衛するにはあまりにも少数日本軍王宮一隅追い込まれた。村上中隊長は、数では清国軍に劣るものの戦闘では決して不利とはいえず、必ず撃退することを竹添公使約束したが、竹添はそれを聞き入れなかった。包囲の環がせばめられ、国王王妃逃げまどい、ついに竹添は日本軍撤収命じた国王奉じて仁川避難するという金玉均らの申し出国王によって拒否された。竹添公使日本軍昌徳宮の裏門から脱出して午後7時30分ころに漢城の校洞にある日公使館戻った朴泳孝金玉均ら9名も行動をともにしたが、洪英植泳教は国王にしたがって王宮残り、のちに清国兵に殺害された。 清国軍は、12月7日から10日まで高宗陣営内に確保しその間高宗教書発布させ、臨時政権樹立させた。4日から6日にかけての宮廷記録書き改めさせ、高官らに金玉均らを弾劾すべしとの上疏をさせた。新閣僚には、左議政金弘集筆頭に、金允植、金晩植、魚允中らが入り、右営使に閔泳翊外務協弁にメレンドルフ名を連ねた。 竹添の公使館帰着前から漢城大混乱陥った鐘路付近商店のほとんどが清国兵や朝鮮人暴徒によって破壊掠奪され、日本人家屋からの略奪行為相次いだまとまって避難していた日本人集団各地襲撃され婦女子いたるところ暴行された。旅行中日本軍大尉1名や日本公使館逃げ込まなかった居留民29名は暴徒化した軍民によって殺害された。竹添もまた居留民保護務め充分に負ったとはいえない。公使館には在留邦人避難者含めて260人が押し寄せており、籠城するにも食糧足りなかった。 結局、竹添は7日午後この年7月新築落成なったばかり日本公使館火を放って全員退去命じ西大門抜けて麻浦から漢江くだって仁川府向かった。竹添一行仁川領事館着いたのは翌8日の朝であった。彼らは停泊中の千歳丸収容され長崎へと向かうこととなったが、竹添はクーデタ自分かかわり明らかになることを怖れ朴泳孝金玉均らの同行露骨に嫌がった。そこに外務協弁のメレンドルフ船内捜索かけつけた。「これは国際問題だ」と脅しをかけるメレンドルフ対し、竹添公使やむなく捜索承諾したが、千歳丸船長辻覚三郎がここで義侠心発揮し・金らを船底隠し自分がこの船の責任者であり、勝手に立ち入ることは誰でも許さない強硬に主張してメレンドルフを引き下がらせ、金らはようやくひそかに同行できたのであった朝鮮では親清派が臨時政権樹立したが、独立党人士・金ら亡命者たち家族数多く朝鮮残った。彼らは殺害されたり、禁固刑となったり、あるいは自殺するなど、ほとんどが悲惨な結末たどった徐光範徐載弼父母妻子絞殺処せられ、金玉均養父国王配慮養子縁組解除されたものの、実父捕らえられ金玉均一緒に処刑するため獄につながれた。政変参加した独立党員の身内には「族誅」が適用され従者や幼い子どもも含め家族残忍な方法処刑された。 クーデタ失敗によって死を免れた金玉均朴泳孝ら9名は日本亡命しそのうち徐光範徐載弼らはアメリカ渡った亡命した金玉均小笠原諸島父島札幌など日本各地転々としたが、日本政府からは冷遇され再起計画絶望しついには清国北洋大臣李鴻章説得するため、1894年明治27年3月上海渡った。しかし、3月28日44歳金玉均は、同地において朝鮮国王放った刺客洪鐘宇によって暗殺された。その遺体朝鮮半島移送された後に凌遅刑処せられ、五体引き裂かれたのち朝鮮各地分割して晒された。金の妻と子は、甲申政変失敗から10年生死不明行方知らずとなったのち、1894年明治27年12月忠清道沃川近傍当時東学党の乱甲午農民戦争鎮圧の任にあたっていた日本軍によって偶然発見され保護された。そのとき2人は実に憐れむべき姿だったという。 政変失敗帰したものの、このできごと近代国家樹立めざした民族運動さきがけとしての歴史的意義有する問題は、それが朝鮮民衆の支持欠いており、もっぱら外国勢力日本)の力を借りようとしたことであり、その意味で、それが最終的に外国勢力清国)の介入によって失敗終わったのも無理からぬところがあった。結局のところ、新政権を守るための防衛対策怠ったことがクーデタ挫折原因だったのである

※この「三日天下」の解説は、「甲申政変」の解説の一部です。
「三日天下」を含む「甲申政変」の記事については、「甲申政変」の概要を参照ください。

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三日天下

出典:『Wiktionary』 (2021/07/23 05:38 UTC 版)

名詞

三日天下みっかてんかみっかでんか

  1. ある権勢長続きせず、短命終わる事。

語源

戦国期、明智光秀謀反によって主君織田信長打倒するが、その権勢長く続かなかった事に由来する(w:本能寺の変参照)。「三日」は短い期間を表したものであり、実際に11日間の天下だったとする有力

翻訳


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