三日天下
三日天下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 22:20 UTC 版)
王允は殊勲者の呂布を奮威将軍に任じ、温侯に封じた。また、董卓の残党狩りを行なって董卓の一族を皆殺しにし、董卓派と見られる官僚らを粛清した。その中には文人として名高い蔡邕もいた。 しかし呂布をはじめとする多くの者が、旧董卓軍の涼州兵たちを特赦するよう提案したが、王允は「年に二回特赦を出すことは慣行に背く」と拒否し、追放を決定した。さらに呂布らが、董卓の財産を協力した兵たちに賞与として分け与えるよう提案したが、王允はこれも拒否した。また董卓に厚遇されていた蔡邕が恩を感じ、董卓の死に嘆き悲しんでいた事に対して投獄し、獄中で歴史書の編纂を行おうとした事に対しても、死罪をもって対応した。このような固定観念に囚われた融通の利かない対応が、後に自らの首を絞めることになっていく。さらに王允がかねてから呂布を軽視し、呂布も自分の功績を誇ることが多かったため、両者の仲は次第に悪化していったという。 董卓の部下であった李傕・郭汜ら涼州出身者は降伏を願い出たが、前述のように王允は許さなかった。このため同年6月、李傕・郭汜らが賈詡の助言により都に攻め入ると、王允に反発した胡軫・楊定の裏切りもあり、王允・呂布らは敗北した。 敗れた呂布が撤退時に王允に同行を誘ったが、王允は .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「国家の安定が、私の願いでした。これが達成されないとあれば、命を捨てるまでのことです。朝廷では幼い陛下が私だけを頼りにしているのです。この期に及んで一人助かるなどとは、とても私にはできません。どうか関東の諸侯によろしくお願いします。天下のことを忘れないようにと、お伝えください」と処刑される覚悟で、長安に残った。 呂布を破った李傕らは長安へ侵入し、董卓暗殺に加担した有力者らを次々と殺害、献帝の避難所に迫った。献帝が李傕らを詰問したが、李傕らは「陛下に忠を尽くし、董卓暗殺の復讐をしたまでのことです。終わり次第、罪を受けます」と弁明した。行き場を失った王允は逮捕・処刑された。齢57。また、子らをはじめ一族も皆殺しとなり、全員が晒し首となった。 長安の人々は、老若男女問わず全員が涙を流したという。後に許都へ移った献帝は、その忠節を思い殯(もがり)を改めて葬ると、司徒の印綬を郷里の郡へ送った。孫の王黒が安楽亭侯に封じられた。彼の墓は現在許昌市郊外にある。 宋の范曄は「王允が董卓を推戴して権力を分担したのは董卓の隙を伺うためであり、知る者はその本意が(帝への)忠誠にあったと知っていた」と評している。また同伝賛は「難に図って心を晦まし節を傾けた。功は全うすれどもは元は醜く、残党を残すことになった」と述べている。
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三日天下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 00:27 UTC 版)
開化派のクーデタに対し、閔氏側の右議政沈舜沢は清国軍の出動と国王・閔妃の救出を要請した。清国軍は当初出動をひかえていたが、これは、高宗が日本公使の保護を命じていたことと、日清両軍の衝突による混乱を避けるためであった。しかし、事態の進展はそれを許さず、清国軍を統括していた呉兆有が袁世凱らと協議した結果、12月6日、兵を率いて昌徳宮に入ることを決めた。袁世凱は国王への拝謁を求めたが、金玉均は袁世凱の拝謁は当然ながら許されるが兵を率いて入ることは許されないと応答した。午後2時すぎ、呉兆有が500名を率いて宣仁門から、袁世凱が800名を率いて敦化門から攻撃を開始し、午後3時ころから日清間で銃撃戦が始まった。このとき、袁世凱は攻撃目標は日本兵ではなく、あくまでも反乱者たちであるという名目を立てている。王宮護衛の職にあった朝鮮政府軍兵士400名は経験も浅く、武器も不十分であったため、宣仁門を守っていた兵士は一斉に逃亡、他の場所でも至る所でくずれ、清国軍に合流する者もあらわれた。結果として日本軍150名だけで清国兵1,300名と戦わざるをえなかった。しかし、日本兵は奮戦し、日本側の犠牲者は死者1名、負傷者4名であったのに対し、清国軍の戦死者は53名を数えた。多くの清国兵士は気勢をあげて威嚇するのみで、交戦を避けて王宮各所に放火、略奪行為に走った。 とはいえ、広大な昌徳宮を防衛するにはあまりにも少数の日本軍は王宮の一隅に追い込まれた。村上中隊長は、数では清国軍に劣るものの戦闘では決して不利とはいえず、必ず撃退することを竹添公使に約束したが、竹添はそれを聞き入れなかった。包囲の環がせばめられ、国王と王妃は逃げまどい、ついに竹添は日本軍撤収を命じた。国王を奉じて仁川に避難するという金玉均らの申し出は国王によって拒否された。竹添公使と日本軍は昌徳宮の裏門から脱出して午後7時30分ころに漢城の校洞にある日本公使館に戻った。朴泳孝・金玉均ら9名も行動をともにしたが、洪英植や朴泳教は国王にしたがって王宮に残り、のちに清国兵に殺害された。 清国軍は、12月7日から10日まで高宗を陣営内に確保し、その間高宗に教書を発布させ、臨時政権を樹立させた。4日から6日にかけての宮廷記録を書き改めさせ、高官らに金玉均らを弾劾すべしとの上疏をさせた。新閣僚には、左議政の金弘集を筆頭に、金允植、金晩植、魚允中らが入り、右営使に閔泳翊、外務協弁にメレンドルフが名を連ねた。 竹添の公使館帰着前から漢城は大混乱に陥った。鐘路付近の商店のほとんどが清国兵や朝鮮人暴徒によって破壊・掠奪され、日本人家屋からの略奪行為が相次いだ。まとまって避難していた日本人集団が各地で襲撃され、婦女子がいたるところで暴行された。旅行中の日本軍大尉1名や日本公使館に逃げ込まなかった居留民29名は暴徒化した軍民によって殺害された。竹添もまた居留民保護の務めを充分に負ったとはいえない。公使館には在留邦人避難者も含めて260人が押し寄せており、籠城するにも食糧が足りなかった。 結局、竹添は7日午後、この年の7月に新築落成なったばかりの日本公使館に火を放って全員退去を命じ、西大門を抜けて麻浦から漢江をくだって仁川府に向かった。竹添一行が仁川領事館に着いたのは翌8日の朝であった。彼らは停泊中の千歳丸に収容され、長崎へと向かうこととなったが、竹添はクーデタと自分のかかわりが明らかになることを怖れ、朴泳孝・金玉均らの同行を露骨に嫌がった。そこに外務協弁のメレンドルフが船内の捜索にかけつけた。「これは国際問題だ」と脅しをかけるメレンドルフに対し、竹添公使はやむなく捜索を承諾したが、千歳丸の船長辻覚三郎がここで義侠心を発揮し、朴・金らを船底に隠し、自分がこの船の責任者であり、勝手に立ち入ることは誰でも許さないと強硬に主張してメレンドルフを引き下がらせ、金らはようやくひそかに同行できたのであった。 朝鮮では親清派が臨時政権を樹立したが、独立党の人士や朴・金ら亡命者たちの家族も数多く朝鮮に残った。彼らは殺害されたり、禁固刑となったり、あるいは自殺するなど、ほとんどが悲惨な結末をたどった。徐光範と徐載弼の父母妻子は絞殺に処せられ、金玉均の養父は国王の配慮で養子縁組が解除されたものの、実父は捕らえられ、金玉均と一緒に処刑するため獄につながれた。政変に参加した独立党員の身内には「族誅」が適用され、従者や幼い子どもも含めむ家族が残忍な方法で処刑された。 クーデタの失敗によって死を免れた金玉均、朴泳孝ら9名は日本に亡命し、そのうちの徐光範、徐載弼らはアメリカに渡った。亡命した金玉均は小笠原諸島の父島や札幌など日本各地を転々としたが、日本政府からは冷遇されて再起計画に絶望し、ついには清国の北洋大臣李鴻章を説得するため、1894年(明治27年)3月、上海に渡った。しかし、3月28日、44歳の金玉均は、同地において朝鮮国王の放った刺客洪鐘宇によって暗殺された。その遺体は朝鮮半島に移送された後に凌遅刑に処せられ、五体を引き裂かれたのち朝鮮各地に分割して晒された。金の妻と子は、甲申政変の失敗から10年間生死不明で行方知らずとなったのち、1894年(明治27年)12月忠清道沃川の近傍で当時東学党の乱(甲午農民戦争)鎮圧の任にあたっていた日本軍によって偶然発見され、保護された。そのときの2人は実に憐れむべき姿だったという。 政変は失敗に帰したものの、このできごとは近代国家の樹立をめざした民族運動のさきがけとしての歴史的意義を有する。問題は、それが朝鮮民衆の支持を欠いており、もっぱら外国勢力(日本)の力を借りようとしたことであり、その意味で、それが最終的に外国勢力(清国)の介入によって失敗に終わったのも無理からぬところがあった。結局のところ、新政権を守るための防衛対策を怠ったことがクーデタ挫折の原因だったのである。
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