長岡藩への影響
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第二回唐物抜荷事件が発覚した天保11年(1840年)11月、幕府は長岡藩主牧野忠雅を川越、川越藩主松平斉典を出羽庄内へ、庄内藩主酒井忠器を長岡に転封させる、三方領知替えを命じた。しかしこの三方領知替えは庄内藩領民の激しい反対運動が起きた上に、大御所徳川家斉の実子を養子とした川越藩主松平斉典に対する優遇策であるとして外様大名らの強い反発を招いた。三方領知替えが広範囲の反発を招いて暗礁に乗り上げていた天保12年6月7日(1841年7月24日)、将軍徳川家慶は老中水野忠邦に対し、三方領知替えの断念とともに、取り締まりが不十分であるとの話が出ている酒田、新潟を上知して、替わりの地を給するべきではないかとの親諭を下した。結局、三方領知替えは天保12年7月12日(1841年8月28日)に家慶の判断で中止となった。三方領知替えは断念されたが、家慶の酒田、新潟の上知構想もいったんは見送られた。しかし新潟の上知構想は復活、実現することになる。
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