長岡空襲
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長岡空襲(ながおかくうしゅう)は、第二次世界大戦(大東亜戦争)末期の1945年8月1日の日本時間午後10時30分から翌8月2日の未明午前0時10分の間に、アメリカ軍により行われた空襲。新潟県長岡市の中心部市街地を標的に焼夷弾が大量に投下された。これにより中心部市街地の約8割が焼失し、長岡市長だった鶴田義隆を含む1480人余りの市民が死亡した。罹災戸数は11986戸にも及ぶ。
- ^ a b 総務省 長岡市における戦災の状況(新潟県)
- ^ 長岡市 史跡詳細 長岡市戦災殉難者慰霊塔
- ^ 後ろに見える建物を当時の長岡市役所と記している資料もある(『長岡市政だより』第726号 平成27年3月1日発行など)が、長岡郵便局が正しい(長岡戦災資料館に確認済)。
- ^ 『長岡市政だより』平成28年8月号 第743号 p.9
- ^ 長岡空襲犠牲者、新たに母子確認し計1488人に - 産経新聞 2019.1.18 07:08
- ^ 『富山大空襲』(北日本新聞社、1972年)では、戦後、米兵から伝え聞いた話として、電信でTAKAOKAとNAGAOKAを混同して取り違えたと言う説を紹介している。
- ^ 『瞽女の民俗』、1983年3月10日発行、佐久間惇一、岩崎美術社、P15
- ^ 『目で見る 長岡・柏崎の100年』(1992年11月14日、郷土出版社発行)162頁。
- ^ 『目で見る 長岡・柏崎の100年』(1992年11月14日、郷土出版社発行)134頁。
- ^ 『目で見る 長岡・柏崎の100年』(1992年11月14日、郷土出版社発行)135頁。
- 1 長岡空襲とは
- 2 長岡空襲の概要
- 3 長岡空襲関連史跡
長岡空襲
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「平潟神社 (長岡市)」の記事における「長岡空襲」の解説
長岡空襲(1945年8月1日)では平潟神社の境内で亡くなった人が長岡市内でもっとも多かった(268人)。そのため、平潟神社の境内に慰霊塔を建立しようという運動が始まり、1958(昭和33)年11月、一般からの寄附と市および県の補助金により「長岡市戦災殉難者慰霊塔」が建立された。その後、老朽化が進んだため、戦災50周年にあたる1995年(平成7年)に隣接する平潟公園に修復・移設。。
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