新潟の上知
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:38 UTC 版)
天保6年(1835年)の第一回唐物抜荷事件、天保11年(1840年)の第二回唐物抜荷事件の摘発にも関わらず、その後も新潟港で抜荷が行われ続けているとの風聞は絶えることが無かった。幕府は新潟に御庭番を派遣して情報収集につとめていた。新潟での諜報活動を終え、天保12年12月21日(1843年2月1日)に江戸に戻った配下の御庭番の報告を受けた目付佐々木三蔵は、いまだ新潟港で抜荷が行われ続けていること、そして海岸の防衛体制も手薄であることを指摘し、新潟の上知が必要であると水野忠邦に提案した。この提案を受けた水野は、新潟港の領主である長岡藩主の責任追及の意味も込めて、幕府挙げての一大行事である将軍家慶の日光社参の終了後に新潟港の上知を実現すべきであると上申し、家慶の裁可を得た。 水野忠邦は天保14年(1843年)2月、全国に唐物抜荷取締令を公布した。取締令の中で新潟で起きた二度の唐物抜荷事件について公表された。天保14年3月26日(1843年4月25日)、長岡藩主牧野忠雅は、二度の唐物抜荷事件の責任を取るべく幕府に謹慎の伺いを提出したが、謹慎にはおよばないとして却下された。 天保14年6月11日(1843年7月8日)、幕府は長岡藩に対して新潟上知を命じた。幕府の上知の狙いは抜荷の防止と海防の強化であった。二度の唐物抜荷事件を起こしたことで、長岡藩は幕命に抵抗することは出来なかった。天保14年6月17日(1843年7月14日)、初代新潟奉行として幕府は、かつて新潟等で抜荷の内偵を行った川村修就を任命した。 なお天保14年(1843年)に新潟は上知されて幕領となった後、薩摩藩絡みの抜荷は富山の薬売りが関与するウエイトが増すことになった。富山の薬売りたちは薩摩藩側から抜荷品である漢方薬種等を仕入れるとともに、薩摩藩側に昆布を輸送する便宜を図っていた。
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