新潟の景浦家・小林家とは? わかりやすく解説

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新潟の景浦家・小林家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/25 09:23 UTC 版)

あぶさんの登場人物」の記事における「新潟の景浦家・小林家」の解説

景浦 安造かげうら やすぞう) 安武実の父。魚河岸働いていた。安武下戸聞いていたが実は大酒豪(その酒豪ぶりは友人半兵衛の口から語られる)で、安武誕生と共にきっぱり断酒した。安武子どもの頃病気罹った時には、3人の医者連れてきて誰が一番先にその病気治せるか競わせようとしたこともあるほど、安武可愛がる父親側面持っていた。1952年没。 小林 花子こばやし はなこ) 安武実の母。生年月日不詳新潟県新潟市中央区学校裏町在住魚河岸働いていた。結婚前呉服問屋一人娘だった。 「女うわばみ」と異名取り息子である安武にも勝るとも劣らない酒豪。安造と死別後、満の父と再婚連れ子の満を実子と同じ深い愛情注いでいる。むしろ、野球勝負については安武厳しく満に甘く安武が勝つと怒るほど。なお再婚に際しては「(安武帰郷しやすい様に自分住んでいた家で暮らすこと」を条件にしている。1974年夏、藤井寺球場行われた高校軟式野球全国大会出場した満の応援来阪その夜に「大虎」を訪れ安武取り巻温かな環境知り安心して夜行寝台特急・つるぎに乗るそのとき虎次郎サチ子安武実母だとは全く気が付かなかった。1978年自主トレの際はトラック中百舌鳥乗りつけ、土産広瀬監督らに挨拶している。 但し、満が甲子園初戦サヨナラ負けしたことが描かれている回の最後コマ身分明かしていないという設定にも関わらず、「大虎」で「終わったんじゃのお、満の夏も」と身内そのもの発言をしている。 基本的に鷹揚大らかな女性だが、安武野花食品野球部退部して帰郷してきた時には、心を鬼にして有無を言わせず追い返す非情さも見せている。一方西武時代の満が頭部死球受けた時には、即見舞い飛び出していったこともある。真田母子との同居すんなり引き受けるなど度量大きい。 安武引退にあたって最後に着用していたユニホームそのままプレゼントされ感謝言葉受けた2000年開幕時に安武から小林共々試合招待されていた(その試合安武3000試合出場試合でもあった)が、病気倒れて入院したため観戦はかなわなかった(景虎見舞い訪れたが、安武そのまま試合出た)。その後程なく回復新潟開催試合足繁く観に行っていたほか、神宮・東ドームなどで安武や満のプロ入り後の試合観戦したことがある小林こばやし花子の夫であり満の実父下の名前不詳年齢不詳だが、1984年定年退職直後時点自分人生について「もっと中身のある32年過ごせたんじゃないかと後悔している」という台詞がある。 下戸温厚な紳士勤務先は「朱鷺」を製造する酒造会社趣味将棋で、大山名人署名入りの駒が自慢安武とも実の親同様に心が通じ合っている。定年退職後書道教室開き少しずつ酒も飲めるうになる宛名書きアルバイトしたことがある。 花子との再婚応じたきっかけとして、安武存在があったことを明かしている。花子について試合を観に行くことも多い。満の現役引退の際は、その意思いち早く察知した小林 満こばやし みつる) 日本ハム1977年 - 1980年) - 南海1981年 - 1984年) - ヤクルト1985年 - 1989年) - 西武1990年 - 1997年) - ダイエー1998年) - 阪神1999年 - 2000年) - 近鉄2001年安武義理の弟(父・小林連れ子)。プロ野球選手中学校教諭1958年度生まれ1973年暮れ安武初対面翌年軟式野球全国大会出場する1回戦負け1976年監督以下チームメイト等の説得軟式野球から硬式転向強肩強打外野手として甲子園出場を果たす。甲子園では初戦最終回無死満塁ピンチリリーフに立つも大暴投サヨナラ負け。 しかし、その肩の地力日本ハムファイターズ瓜生スカウトに見抜かれ投手としてドラフト4位指名入団背番号は「景浦安武90番)を超える」という意味から当時大沢啓二監督一言で「91」番となる(小林本人は「89」番を所望した)。ちなみにノンプロ新潟水産就職内定していた。1977年オープン戦安武との初対決では死球与え安武担ぎ込まれ病院見舞い行きかけるが、直前引き返した南海野村選手兼任監督当時)は「越後新米」と絶妙あだ名をつける。同年2軍鍛え1軍デビューは翌1978年安武三振討ち取り大沢監督は「これぞ火の玉投手でぇ!」と誇らしげ哄笑する。翌1979年近鉄戦で連続スクイズによるサヨナラ負け喫するが、対戦した佐々木恭介栗橋茂バット折られ挙句苦し紛れスリーバントだった。 ただ、プロ入り当初プロ野球選手として自覚欠け部分があり、そのこと安武看破され言葉でなく行動で猛叱咤受けたため、心機一転の意味込めて丸坊主にしたこともある。また、若い頃少々血気にはやる部分のある性格だった(後述の、肩の故障投手断念せざるを得なくなった時など)。 1981年、俵星外野手とのトレード南海ホークス移籍背番号日本ハム時代と同じ「91」。 同年阪急戦に松本幸行投げ合い1-0勝利。その試合和子ほのかな恋心芽生えた。また景虎夏子の子守をするシーン多く見られた。この頃には自動車免許取得していたらしく、幸から借りた軽トラック運転して引っ越し荷物を運ぶ描写がされたことがあるプロ7年目1983年キャンプ途中で肩を痛め野手転向当初荒れ狂って、見かねた虎次郎山田屋から叱責されるも、「なにわ荘」自室にあった安武バットを手にして思い直し必死リハビリ努力の末、義兄安武とともに打者として活躍する安武がやるような酒しぶき披露したこともある。 プロ9年目1985年ヤクルトスワローズ移籍(その直前には、プロゴルファーへの転身も真剣に考えていた)。背番号当初日本ハム南海時代と同じ「91」だったが、その後当時空き番号「2」に変更している。当時水島作品である『虹を呼ぶ男』ではヤクルト舞台なため、台詞こそないが後ろ姿登場している。 1989年には倉田洋子結婚(後に西武への金銭トレードの際に離婚するが、その後復縁して一児をもうける)。 この頃三塁手コンバートされたことがあり、長嶋一茂やデシンセイらとレギュラーの座を争っているといった話はあったが、三塁手としてのプレー描写はほとんどされなかった。また、大虎」に長嶋一茂ボブ・ホーナー連れてきたことがあるライオンズ移籍後外野手戻っている。 ホークスでの打者転向以来スワローズライオンズ背番号「0」→「00」)と主に代打として活躍してきたが、西武ライオンズ時代1995年プロ19年目・37歳オリックスイチロー同率首位打者輝きかなりの遠回り遅咲きではあるが外野(主に左翼手)のレギュラー獲得するこの際片平晋作コーチとの共同作業により一本足打法習得しているほか、石毛宏典らの助言長打捨てセンター返しを狙う打撃スタイル変えた。それらのことが首位打者獲得一因とも言えるまた、そのスタイル徹底ぶりから、ダイエー根本陸夫監督専用シフト作らせるまでに至ったその後1997年オフFA宣言して、福岡ダイエーホークス移籍背番号は「93」。1998年1年間だけ再び安武兄弟プレーし一時引退決意するが、当時阪神タイガース野村克也監督誘い捕手として阪神入団背番号92」)。その後現役最晩年には大阪近鉄バファローズ移籍し、甥の景虎バッテリー組んだ背番号同じく02」)。 2001年オフ現役引退引退後監督就任した同僚石毛宏典の引きでオリックス・ブルーウェーブコーチとして入団石毛解任後も残り球団合併後オリックス・バファローズコーチ勤めていた。 投手1977年1982年としての6年間は素質割にはさほど華々しい実績はなく、打者転向後(1983年2001年)も前半10年近く控え外野手内野手代打として数球団渡り歩きながら、後年首位打者遅咲きレギュラー獲得した最晩年捕手転向して甥の景虎バッテリーを組むなど、苦労しながらもコツコツ野球続けて44歳引退するまでのべ7球団その間安武と2回チームメイトになっている)、複数ポジション打順渡り歩きながら、首位打者タイトル獲得するまでになり、合計26年間に及ぶ現役生活勤め上げた同時に年齢を経るごとに精神的な落ち着き洞察力更には思考柔軟性出てきた。そのこと景虎選手生活選択にも影響与えることとなる。 退団後、中学校の教員免許取得し教職の道に進む。岐阜県在住の後、2012年春野和子長男安武の通う中百舌鳥北中学校赴任し野球部の監督就任したその後は「大虎」の常連客ともなっている。 後述大山哲矢からライバル視されていた時期がある。憧れの人物でもあった安武には当初基本的に「です・ます」調で話していたが、加齢と共にフランク口調も使うようになった女性とは、目立った関係は描かれず、新潟同級生カコ、そして倉田洋子との交流があった程度交際までしたのは洋子のみ。 倉田 洋子くらた ひろこ) 満の妻。倉田旧姓。満のヤクルト在籍時に婚約者として「酒の店」で安武店主鈴木その際鈴木仲人依頼しようとした)に引き合わせたその後結婚父親その時点でも反対していたが、披露宴最中夏子のとった行動によって心がほぐれ、結婚認めた。満を見初めたのは巨人戦一生懸命にプレーをする姿をたまたま目撃したことがきっかけ。 しかし、西武移籍巡って対立し一度離婚。だがその後東京ドームでのオールスター戦観戦した際に小林夫妻再会溌剌としたプレー見せる満の姿を見て自分判断間違っていたと小林夫妻告白。更にその試合後に安武や満と再会したことをきっかけに満と復縁した。復縁後に子ども(長男・真)を授かった

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