松本幸行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/13 02:07 UTC 版)
基本情報 | |
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国籍 | ![]() |
出身地 | 大阪府大阪市生野区 |
生年月日 | 1947年6月5日(78歳) |
身長 体重 |
182 cm 80 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1969年 ドラフト4位 |
初出場 | 1970年4月14日 |
最終出場 | 1981年6月16日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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松本 幸行(まつもと ゆきつら、1947年6月5日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手(投手)。
経歴
名は昭和天皇が大阪に行幸された年に生まれたことにちなむ[1]。大阪市立御幸森小学校、大阪市立鶴橋中学校、大阪商業大学附属高等学校からデュプロ印刷機に入社。
1969年の第40回都市対抗野球大会へのチーム初出場に貢献。2回戦(初戦)で先発し、この大会に優勝した電電関東の若宮秀雄と投げ合うが完封負けを喫する。1969年のドラフト4位で中日ドラゴンズに入団。1970年から一軍に上がる。1971年には先発陣の一角に定着。1972年には稲葉光雄に次ぐチーム2位の13勝を記録し、初めて規定投球回(12位、防御率3.14)にも達する。同年から1976年まで5年連続二桁勝利を挙げた。
1973年8月30日、阪神タイガースの江夏豊が対中日戦(阪神甲子園球場)で史上初の延長戦ノーヒットノーランを達成したが、この時、江夏と投げ合ったのが松本だった[2]。これを契機に阪神キラーと呼ばれるようになる。
1974年は20勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得[3]し、読売ジャイアンツの10連覇を阻止する中日20年ぶりのリーグ優勝に貢献。同年の20勝のうち実に9勝を阪神から挙げている。これを含め、中日時代の通算98勝のうち28勝を阪神から挙げた。同年のロッテ・オリオンズとの日本シリーズは3試合に先発。第3戦では8回途中まで好投するが前田益穂に代打3点本塁打を喫し降板、その後は鈴木孝政につなぎ、自身の日本シリーズ初勝利を果たす。1975年は初の開幕投手を務め17勝、リーグ3位の防御率2.41の好成績を残した。しかしその後は低迷が続き、1979年には2勝に終わる。1980年に三枝規悦との交換トレードで、阪急ブレーブスへ移籍し、同年は10勝5敗、防御率3.88(リーグ10位)と4年ぶりの二桁勝利を挙げる。6月19日の対南海ホークス戦(大阪スタヂアム)で通算100勝を達成。1981年限りで引退。
引退後は派閥争いを避け会社勤めをして[4]長らくメディアの前に姿を表さなかった[注釈 1]が、2023年12月18日放送のNHK BS「球辞苑」第93回[注釈 2]にVTR出演した。2024年7月25日、「中日スポーツ創刊70周年記念 DRAGONS CLASSIC LEGEND GAME2024」に出場[5][4][6]。
人物・選手としての特徴
中日の日本人左腕[注釈 3]として日本シリーズで昭和唯一の勝利投手であり、ロッテオリオンズから日本シリーズで勝ち星を挙げた昭和最後の投手など特殊な記録の持ち主でもある[注釈 4]。また阪急所属時代には、近鉄の215試合連続得点[注釈 5]を止めた事でも知られている[注釈 6]。
とても投球間隔が短い投手で知られ、「早投げ」・「ちぎっては投げ」は松本の代名詞であった[4][7]。自身も「投球間隔が短くて試合終了が早いから、試合後に飲み屋で審判員に会うとお礼を言われた[1]」と語る。サインを見ている様子が無いとまで言われたが、本人によれば「キャッチャーからの返球を受けている間に見ている[8]」。このようなスタイルになったのは高校時代に腰を痛めた際、キャッチボールの様に投げたら痛みが無かったからだという[1]。
荒れ球とシンカー[注釈 7]を武器に打たせてとるピッチングを持ち味とした。高橋慶彦と真弓明信によると、松本は牽制の名人であったという[10]。
野球嫌いの松本人志が少年時代に好きだったと語っている。姓が同じこと、前述の「早投げ」がおもしろかったことがきっかけ。なお名を「るきつら」と間違って覚えており、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」のトークでそう呼んでいた。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1970 | 中日 | 22 | 5 | 2 | 1 | 0 | 2 | 3 | -- | -- | .400 | 242 | 59.2 | 51 | 2 | 20 | 0 | 1 | 25 | 0 | 0 | 18 | 17 | 2.55 | 1.19 |
1971 | 41 | 15 | 0 | 0 | 0 | 5 | 5 | -- | -- | .500 | 499 | 124.0 | 111 | 11 | 37 | 2 | 5 | 61 | 0 | 1 | 46 | 41 | 2.98 | 1.19 | |
1972 | 42 | 25 | 6 | 1 | 1 | 13 | 8 | -- | -- | .619 | 776 | 191.2 | 173 | 18 | 54 | 1 | 2 | 76 | 1 | 0 | 77 | 67 | 3.14 | 1.18 | |
1973 | 39 | 32 | 13 | 4 | 3 | 14 | 11 | -- | -- | .560 | 938 | 234.0 | 201 | 18 | 51 | 4 | 6 | 90 | 2 | 1 | 70 | 62 | 2.38 | 1.08 | |
1974 | 40 | 37 | 11 | 3 | 2 | 20 | 9 | 0 | -- | .690 | 965 | 236.1 | 232 | 29 | 38 | 4 | 11 | 89 | 3 | 0 | 92 | 82 | 3.13 | 1.14 | |
1975 | 37 | 37 | 9 | 2 | 2 | 17 | 15 | 0 | -- | .531 | 991 | 250.0 | 217 | 30 | 40 | 9 | 12 | 98 | 0 | 0 | 86 | 67 | 2.41 | 1.03 | |
1976 | 42 | 36 | 4 | 0 | 0 | 15 | 15 | 0 | -- | .500 | 933 | 223.1 | 229 | 36 | 58 | 4 | 7 | 62 | 0 | 0 | 111 | 98 | 3.96 | 1.29 | |
1977 | 36 | 20 | 2 | 1 | 0 | 4 | 8 | 2 | -- | .333 | 518 | 120.2 | 143 | 22 | 44 | 5 | 2 | 26 | 0 | 0 | 75 | 72 | 5.36 | 1.55 | |
1978 | 32 | 27 | 3 | 0 | 0 | 6 | 12 | 0 | -- | .333 | 686 | 157.2 | 185 | 23 | 41 | 0 | 6 | 58 | 0 | 1 | 103 | 90 | 5.13 | 1.43 | |
1979 | 22 | 8 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | -- | .400 | 245 | 55.1 | 70 | 8 | 13 | 1 | 1 | 11 | 1 | 0 | 32 | 30 | 4.91 | 1.50 | |
1980 | 阪急 | 24 | 14 | 8 | 2 | 2 | 10 | 5 | 1 | -- | .667 | 574 | 137.1 | 164 | 22 | 18 | 3 | 1 | 28 | 2 | 0 | 70 | 59 | 3.88 | 1.33 |
1981 | 12 | 12 | 1 | 0 | 1 | 3 | 4 | 0 | -- | .429 | 236 | 50.2 | 73 | 13 | 14 | 0 | 1 | 14 | 0 | 0 | 40 | 37 | 6.53 | 1.72 | |
通算:12年 | 389 | 268 | 59 | 14 | 11 | 111 | 98 | 3 | -- | .531 | 7603 | 1840.2 | 1849 | 232 | 428 | 33 | 55 | 638 | 9 | 3 | 820 | 722 | 3.53 | 1.24 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
記録
- 初記録
- 初登板:1970年4月14日、対阪神タイガース1回戦(中日球場)、9回表1死から4番手で救援登板・完了、2/3回無失点
- 初勝利:1970年6月9日、対広島東洋カープ10回戦(中日球場)、6回表から2番手で救援登板、2回無失点
- 初先発:1970年7月15日、対大洋ホエールズ11回戦(川崎球場)、2回1/3を2失点で敗戦投手
- 初先発勝利・初完投・初完封:1970年10月1日、対広島東洋カープ26回戦(中日球場)
- 節目の記録
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:3回 (1972年、1974年、1975年)
背番号
- 48 (1970年)
- 21 (1971年 - 1979年)
- 27 (1980年 - 1981年)
参考文献
- スポーツグラフィックナンバー[編]『魔球伝説 プロ野球不滅のヒーローたち』文藝春秋〈文春文庫 ビジュアル版〉、1989年9月1日。ISBN 4168118126。
脚注
注釈
- ^ 電話を持たないため、音信不通となったという[1]。
- ^ テーマは「投球間隔」。
- ^ 左投手に限れば、2010年にチェン・ウェインが第2戦で勝利している。
- ^ 共に1974年の日本シリーズ第3戦で記録。
- ^ シーズンを跨いでの日本記録。
- ^ 1980年9月30日、西京極球場で完封勝ちした。
- ^ 本人曰く「速球のつもりが、肩の引っかかりが悪いために落ちている[9]」。
出典
- ^ a b c d 「【ダンカンが訪ねる 昭和の侍】松本幸行さん、色あせないぜキャッチボール投法」『サンケイスポーツ』産経新聞社、2017年1月17日。2025年9月13日閲覧。
- ^ 「自ら抑えて打って史上初の記録!江夏の晩夏の快投」『スポニチアネックス』〈日めくりプロ野球〉、スポーツニッポン新聞社、2007年8月30日。2007年10月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年9月13日閲覧。
- ^ 「年度別成績 1974年 セントラル・リーグ」一般社団法人日本野球機構。2025年9月13日閲覧。
- ^ a b c 増田護「[コラム]伝説の中日左腕に会って聞いた、球界から“消えた”理由「派閥、ああいうのが嫌だったんですよ」球辞苑でも話題になった松本幸行さん」『中日スポーツ』〈人生流し打ち〉、中日新聞社、2025年5月28日。2025年9月13日閲覧。
- ^ 「中日OB戦、宇野勝さんらの出場決定「1番・田尾」「2番・平野」の名コンビも再結成…松本幸行さんら74年V戦士も」『中日スポーツ』中日新聞社、2025年5月27日。2025年9月13日閲覧。
- ^ 増田護「44年ぶりに名古屋に帰ってきた伝説の左腕、松本幸行さん「本当に来てよかった」中日OB戦は3球降板もファン&チームメートに感謝[コラム]」『中日スポーツ』〈人生流し打ち〉、中日新聞社、2025年7月27日。2025年9月13日閲覧。
- ^ 「【7月5日】1974年(昭49) “早投げのマツ”こと松本幸行「阪神に勝つと近所が…」」『スポニチアネックス』〈日めくりプロ野球〉、スポーツニッポン新聞社、2011年7月5日。2011年7月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年9月13日閲覧。
- ^ 『魔球伝説』 p.84
- ^ 『魔球伝説』 p.86
- ^ 【真弓明信さん後編】真弓さんにとって大得意な投手「定岡正二」と苦手じゃないのになぜかヒットにならない投手「北別府学」⑦【プロ野球OB】【阪神タイガース】【広島カープ】【真弓明信】 - YouTube
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 松本幸行 - NPB.jp 日本野球機構
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固有名詞の分類
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