郭源治
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郭 源治(クォ・ユェンツ、かく げんじ、1956年10月5日 - )は、台湾(中華民国)の台東県台東市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。台湾原住民のアミ族で、1989年9月に日本へ帰化。現在の本名は佳久源治(読み同じ)[1]。
注釈
- ^ 10.8決戦で郭の起用を控えた理由として、郭の性格的なことなどから、高木は「勢いに乗せて出すと、非常にいいピッチングをするんですが、負けている場面で出すと、というところもありましたから。タイトルがかかっているのに、負け試合の気分の乗らないところでマウンドに上げるのは、ちょっと可哀想だなという気持ちが私の中にあったんです」と述べている[50]。
- ^ 最も前述通り3000万円以上の契約金(1980年当時、一部の目玉選手を除いたドラフト上位指名選手の契約金に匹敵)を提示した他球団を蹴って中日を選んだのは郭源治自身の判断であった。また郭泰源は第27回IBAFワールドカップやロサンゼルスオリンピックの出場で日本のみならずメジャーリーグの球団も獲得を検討した事が契約金高騰の要因となった。
出典
- ^ a b c d 「セカンドキャリアの球人力 郭源治」『週刊ベースボール』2012年2月27日号、ベースボール・マガジン社、P.88-89
- ^ a b c d “郭源治 人生を懸けて来日した竜のクローザー/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボールONLINE. 2020年8月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 木村元彦「現代の肖像 郭源治 元中日ドラゴンズ投手 海を超えた『山の子』の快速球。」『AERA』、1999年5月10日号、P.62-66
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- ^ 「台湾プレーヤーのパイオニア 郭源治 『人生を賭けた大きなチャレンジ。日本で成功することは僕の使命だった』」『週刊ベースボール』、2002年7月8日号、P.32
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- ^ 『朝日新聞』、1982年6月28日付朝刊、P.19
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- ^ 日本野球機構 1988年度日本シリーズ 試合結果(第2戦)
- ^ a b 『読売新聞』、1988年10月28日付朝刊、P.19
- ^ 『読売新聞』、1988年10月30日付朝刊、P.18
- ^ 「今やジョーシキの1億円プレーヤーたちの金銭感覚とリッチ度」『週刊ベースボール』、1989年1月9日号、P.37
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- ^ 『読売新聞』、1994年10月7日付夕刊、P.3
- ^ 鷲田康『10・8―巨人vs.中日史上最高の決戦』文藝春秋、2013年、ISBN 978-4163756400、P.139
- ^ 『朝日新聞』、1995年1月18日付朝刊、P.25
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- ^ “郭源治氏「実力がないとできない」中日柳の好投喜ぶ”. 日刊スポーツ. (2019年5月12日) 2019年8月4日閲覧。
- ^ 伝説のプレーヤー郭源治、中華プロ野球の首席顧問に - exciteニュース、2012年12月25日配信
- ^ 『毎日新聞』、2013年3月16日付朝刊、中部本社版、P.29
- ^ アジア・シリーズ中止危機 台湾側から連絡「開催できない可能性」 - スポーツニッポン、2014年9月2日
- ^ 研修コーチの受け入れに関して. 東北楽天ゴールデンイーグルス. 2018年1月29日配信
- ^ “元中日の郭源治氏、台湾野球殿堂入り 日本時代末期に活躍した洪太山氏も”. フォーカス台湾. 中央通訊社 (2019年1月22日). 2022年11月28日閲覧。
- ^ a b c 『Sports Graphic Number』、1988年10月5日号、P.18
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- ^ “星野中日V1の立役者、あのイチローも少年時代に憧れた“踊る守護神”郭源治/昭和助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】”. 週刊ベースボールONLINE. 2021年9月15日閲覧。
- ^ 『週刊ベースボール』、1988年8月22日号、P.43
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- ^ a b 別冊宝島『プロ野球名選手読本』(宝島社)P.98-99
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- ^ 別冊宝島『プロ野球名選手読本』(宝島社)P.101-102
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- ^ “「矢場とん」野球部 抑えは中日OB郭源治の長男”. 日刊スポーツ. (2015年4月21日) 2019年3月24日閲覧。
- ^ a b “元中日投手・郭源治氏、次男の俳優・佳久創と涙のテレビ初共演”. スポーツ報知. (2019年9月6日) 2019年10月14日閲覧。
- ^ “【ヴェルブリッツ】2014年度 引退選手インタビュー WTB 佳久 創”. トヨタヴェルブリッツ TOYOTA VERBLITZ (2015年3月24日). 2019年4月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月2日閲覧。
- ^ “So Kaku 佳久 創”. ACROSS ENTERTAINMENT. 2019年3月24日閲覧。
郭源治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/09 14:03 UTC 版)
中日ドラゴンズに所属。先発と抑えを往来しつつ、日本球界では史上5人目となる100勝100セーブを記録した。2013年-2014年に中華職業棒球大聯盟の首席顧問を務めた。
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