10.8決戦
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10.8決戦(じってんはちけっせん)は、1994年(平成6年)10月8日に日本の愛知県名古屋市中川区のナゴヤ球場で行われた、日本野球機構セントラル・リーグ(以下「セ・リーグ」と表記)の中日ドラゴンズ(以下「中日」と表記)対読売ジャイアンツ(以下「巨人」と表記)第26回戦を指す通称である。
注釈
- ^ 当事者球団同士の最終戦での優勝決定戦ということでは、過去(1973年)に阪神と巨人との間で行われたことがあった(後述)が、10.8決戦と比較すると状況は多少異なる。
- ^ 関係者から見たこの試合の位置づけについて、川相は自著『明日への送りバント』で「日本シリーズでの第7戦とはまた意味合いの違う(中略)。ここで敗れれば、129試合、なんのために気持ちを切らさずにがんばってきたのかわからなくなります」と述べている。
- ^ セントラル・リーグを参照。
- ^ a b 8月18日、巨人は中日を破ってマジックナンバーを点灯させ、今中慎二は5イニング失点5、自責点4で敗戦投手となった[2]。なお、今中の同年の対巨人戦「もう1敗」は、7月13日に桑田真澄の適時打・2失点完投によるもので、今中は7回3失点で「攻略」とはとても言えない[3]。
- ^ 8月30日の中日戦でマジックナンバーが消滅。9月11日の広島戦で再点灯したが、9月23日の横浜戦で再び消滅した。
- ^ 9月28日の試合は行われて、中日が勝利した。中日サイドは28日時点で台風の進路予想から「9月29日の試合は中止になる」と判断し、29日の試合の先発が濃厚とされていた今中を28日の試合にリリーフで起用した。(吉村『アナウンサーは足で喋る』、P.43)
- ^ これによって残り1ゲームで2ゲーム差となるため。
- ^ 当時の登録名は本名の「山本 昌広(やまもと まさひろ)」。ここでの表記は「山本昌」で統一する(当時の中日には同姓の山本保司が在籍していた)。
- ^ 敗戦投手は、この回に登板して槙原の前に塁上の2走者を残して降板した橋本清である。
- ^ この時点まで「巨人・中日の両チームがともに全試合を終了して同率で並ぶ」可能性があり、その場合は3試合制のプレーオフが行われるルールとなっていた(セントラル・リーグ#順位の決め方を参照)。
- ^ クライマックスシリーズ制定前のため、当時は必然的に日本シリーズ出場権も含まれた。
- ^ セ・リーグでは1982年に中日がシーズン最終戦に勝って優勝が決定したということがあるが、この最終戦の相手は優勝争いに関係ない横浜大洋ホエールズであった(中日がこの最終戦に敗れていたら、先に公式戦全日程を終了していた巨人が同年の優勝となるところであった)。なお、高木はこの当時も中日にコーチとして在籍していた。
- ^ 1993年の野球#日本プロ野球、1995年の野球#日本プロ野球
- ^ 中日の優勝のうちこの年から見て"前回"(1988年)の際にフェンスを破ってファンがなだれ込み、けが人も出し、「手薄な」警備も問題となった[16]なお、ここの出典にある1988年の日経によると、愛知県警機動隊約120人、球場側約260人の警備体制ということであった。
- ^ 1973年の「最終決戦」で、暴徒化した阪神ファンにより、試合終了時のグラウンド(阪神甲子園球場)は胴上げ中止など大混乱となった。上記10月8日付スポニチの紙上で、森祇晶は、試合終了時には逃げることで頭が一杯であった旨、述べている。
- ^ a b 例えば、この当時の山形県は前年である1993年の4月1日に山形テレビがフジテレビ系列のフルネット局からテレビ朝日系列のフルネット局へのネットチェンジを行った影響で、フジテレビ系列のテレビ局が存在せず、多くの山形県民はこの試合をテレビ観戦できなかった。
- ^ 10月8日付ニッカンのトップ見出しは「長嶋 国民的行事!!」
- ^ 1973年10月22日、阪神が2位巨人に0.5ゲーム差で首位にいた状況で、両チームにとっての最終戦が優勝を決定する直接対決として行われた。ただし、長嶋は当時コーチ兼任選手として巨人に在籍していたものの、別の試合で負傷のため試合会場に行かなかった[25]。なお、高木は、同年10月20日に阪神を破ってこの局面を「演出」した中日に選手として在籍していた(V9 (読売ジャイアンツ)も参照)。
- ^ 「二死」と思っていたため、打者が三振の際に攻守交替となるため帰塁を考える必要がないという前提で行動して、捕手村田からの牽制球による[28]牽制死となったものである。
- ^ 松井の犠打(バント)は、このほかには1995年に2つあるのみであり、勝負全体の中でも特に勝ち越し点への「執念」を示すものの一つと位置付けられる[31]。
- ^ 落合は、この負傷が影響して後日の日本シリーズは第3戦に指名打者で出場したのみにとどまった。
- ^ 元木大介は、後年、自著で、「自分の所に打球が飛んでくることが怖いと感じたほど緊張」し、試合中憶えていることは「初回に大豊の二塁ゴロを処理し損ねそうになった」ことと、「第1打席で安打を放ったこと」くらいで、他の選手に聞いた範囲でも、元木自身と同様「『あまり憶えていなかった』という選手が多かった」という趣旨のことを述べている[27]。#スコアのとおり、巨人も3失策し、うち1つは失点に結びつき、さらに落合の負傷退場の原因となったプレーもある。
- ^ 立浪の左腕が一塁ベースにぶつかるように達している場面の写真は『中日ドラゴンズ70年史』p.176にも取り上げられている。なお、打者走者の一塁へのスライディングの意図と危険性等は
- ^ 立浪が負傷退場した時の球場内の雰囲気について糸井重里は「(立浪の一塁塁上での脱臼について)あの当たりだったら(中略)みんな同じことをしたと思うから怖かった」と述べている[34]。
- ^ 立浪が一塁にヘッドスライディングをしたのはこれが最初で最後(※二塁にしたことはあったが、「(ヘッドスライディングを)やるな」と教わっていたため高校時代も一塁にヘッドスライディングをしたことが無い)。立浪はこの件を「考えてやったんじゃなく、気が付いたらやっていた」と後に振り返っている。脱臼後はベンチの奥で「関節を入れてくれ」とスタッフに頼んだが、元には戻らず負傷交代となった。その後、立浪は負傷交代後もナゴヤ球場にとどまり、試合終了後に病院へ向かった[35]。
- ^ 打球が本塁打ではないという判定を下した二塁塁審の福井は後年、誤審だったことを認めた[36]。また福井は10.8決戦当日朝に、セ・リーグ連盟より引退または台湾プロ野球への技術指導の選択を指示されたことを受け、翌年から台湾に渡っており、この試合が日本野球機構(セ・リーグ)でジャッジを行った最後の試合である[37]。
- ^ 柏英樹によると、前述の通り、この試合が福井にとっては最後の試合であり、試合前には福井が長嶋監督のもとに挨拶に来ていた。そういったことから、福井の気持ちを考え、その時点で3点リードしていたこともあり、判定に執拗に抗議することを避けた[38]。
- ^ この試合が行われた当時、先発登板した投手は、次回登板まで4日以上あけることが一般的な状況であった。例としては、1994年の日本シリーズでは、第1戦の両チーム先発投手は5日後の第5戦に先発登板している。
- ^ 川相も「あれは気分的に楽でした」と振り返っている[13]。ただし、川相は、こう述べた当時、落合監督の中日でコーチをしていた。
- ^ 仮に中日が勝利して日本シリーズに出場していた場合、日本シリーズのセ・リーグ球団主催試合は当時の中日本拠地だったナゴヤ球場で開催されることとなっていたが、このような縁から、梶原拓(岐阜県知事)や浅野勇(岐阜市長)は同月1日、清水義之(岐阜商工会議所会頭)や「高木守道後援会」会長の上松陽助(元岐阜県知事)と連名で中日球団に対し、「県民や野球ファンにとって夢にまで見た対決」として、日本シリーズのうち1試合を岐阜市内にある長良川球場で開催するよう陳情を行っていた[47]。仮に8日の試合で中日が勝利してリーグ優勝を決めていた場合、梶原・浅野らや「中日ドラゴンズ岐阜後援会」(会長:瀬川隆彦)は翌9日に、NPBコミッショナーの吉國一郎に対し同様の陳情を行うことを予定していた[47]。
- ^ 東海テレビでは名古屋ローカルで、17時30分から中日ドラゴンズの応援番組の『ドラゴンズHOTスタジオ』をナゴヤ球場のスタンドより中継放送し、試合開始前の球場内や野球中継を行う放送席の様子を伝えている。
- ^ 『ベースボール・レコードブック 1995』は「(1994年のヤクルトは)4日に中日に勝ち、6日に巨人に勝ったことで史上初の130試合目同率決戦のお膳立てを整え…」と記述している (p.17) 。
出典
- ^ 電通は、『広告景気年表:1994年(2011年6月7日時点のアーカイブ)』の「世相・風俗 (1994) 」において、「プロ野球を中心にスポーツ界に話題が集まる」として、イチローの210安打、巨人の「日本一」と並んでこの試合を取り上げている。
- ^ 8月19日付日経33面縮刷版1994年8月号p.825「M25点灯 今中粉砕、松井2発」
- ^ 7月14日付朝日27面縮刷版同年7月号p.633
- ^ a b 『週刊ベースボール』1995年1月2,9日号2094号 p.36 - 高木は「(8月に)会社から(解任を言われた)時点で『よし、このまま終わってたまるか』と」と述べている。『ベースボール・レコードブック 1995』p.12 - も参照。
- ^ 10月1日付読売新聞18面 縮刷版p.18
- ^ a b 10月7日付毎日25面縮刷版p.267、(参考)10月7日付日経35面縮刷版p.359
- ^ 『プロ野球70年史 記録編』p.627ほか
- ^ 『Sponichi Annex』[1]「動の長嶋茂雄、静の高木守道」
- ^ 読売10月7日付夕刊3面 縮刷版p.349
- ^ a b c d e f 『Sports Graphic number』(『number』) 1995.3.30 362号 p.86 - 88
- ^ 「なんとかして今中慎二を打つ方法はないか?」10.8決戦前日、長嶋監督にそう聞かれた“伝説のスコアラー”の答え - 文春オンライン・2021年6月15日
- ^ 『日本野球25人私のベストゲーム』
- ^ a b 『number』2009.7.30 733号 p.66
- ^ 今中『悔いは、あります。』p.140
- ^ a b CENTRAL LEAGUE OFFICIAL WEB SITE [2]、ベースボールマガジン2009年5月号 p.72 - 73
- ^ 10月7日付毎日新聞夕刊3面縮刷版p.349、1988年10月8日付日経 社会31面縮刷版同年10月号p.401ほか
- ^ 発表は10月3日(10月4日付東京新聞19面12版)。
- ^ a b c d e f g h 10月9日付ニッカン1 - 5面 (東京都で発行) 7版
- ^ スポーツ35面 縮刷版p.359
- ^ 1面、スポーツ36面 縮刷版p.383、p.418
- ^ 夕刊11面 縮刷版p.433
- ^ 11面 縮刷版p.331
- ^ 3面 縮刷版p.347
- ^ 縮刷版p.201
- ^ 『週刊ベースボール』1973年11月5日号 834号
- ^ 吉村『アナウンサーは足で喋る』、P.55。
- ^ a b 『元木大介の1分で読めるプロ野球テッパン話88』p.p.157~158
- ^ 鷲田『10.8巨人vs.中日史上最高の決戦』pp.191 - 193
- ^ a b 2007年4月19日付読売スポーツ24面縮刷版同年4月号p.1028同率最終戦に緊急登板(2007年5月28日時点のアーカイブ) 桑田同様に槙原、斎藤も試合前日長嶋に呼び出されたとする文献もあるが、斎藤は否定している。
- ^ 鷲田『10.8巨人vs.中日史上最高の決戦』pp.60 - 61
- ^ a b 読売新聞社、ベースボールマガジン社 (2007). 巨人軍5000勝の記憶. ISBN 9784583100296p.p.6~7
- ^ 今中『悔いはあります。』p.144
- ^ 川相『明日への送りバント』p.p.113~118
- ^ a b 週刊ベースボール1995年1月29日号 2094号
- ^ 「“伝説のヘッスラ”から28年…10·8での立浪の左肩脱臼 すさまじかった『その先』ベンチの奥で彼は言った」『中日スポーツ』、2022年3月10日。2023年8月30日閲覧。オリジナルの2022年3月29日時点におけるアーカイブ。
- ^ 鷲田『10.8巨人VS中日史上最高の決戦』P.267
- ^ 鷲田『10.8巨人VS中日史上最高の決戦』P.327
- ^ 別冊宝島2521『球史の証言者たち』p.35
- ^ 10月7日付読売新聞 スポーツ23面 縮刷版p.333、ベースボールマガジン2009年3月号、ほか
- ^ 山際淳司 『風たちの伝説』 河出書房新社、1995年、65頁
- ^ 時代の証言者 堀内恒夫(31)『読売新聞』2024年2月9日朝刊、13面
- ^ 桑田『桑田真澄という生き方』
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- ^ a b スポーツ22、23面、社会31面 縮刷版p.418、419、427
- ^ 10月9日付東京新聞14面12版
- ^ 吉村『アナウンサーは足で喋る』、P.54
- ^ a b 『岐阜新聞』1994年10月8日朝刊第11版第一社会面31頁「“ナゴヤV決戦”燃えるドラファン 球場 席取りに徹夜組 デパート Vセールを準備」「“県勢監督”決戦なら長良川球場で 日本シリーズで知事ら陳情へ」(岐阜新聞社)
- ^ 『中日新聞』,岐阜版,1994年10月9日
- ^ 日経 スポーツ25面 縮刷版p.459 ほか
- ^ 鷲田『10.8巨人vs.中日史上最高の決戦』P.280-P.281
- ^ 澤宮優 『ドラフト1位 九人の光と影』 河出書房新社2008年 p.80 ISBN 978-4-309-27066-1
- ^ 毎日新聞10月10日付 スポーツ20面 縮刷版p.384
- ^ 『中日ドラゴンズ70年史』p.34(OBによる座談会)
- ^ 日経2007年7月29日付40面『私の履歴書』縮刷版同年7月号p.1740
- ^ 例 : 10月9日付毎日新聞 スポーツ18面 縮刷版p.350「ファンはなだれ込まなかった。それは首脳陣、選手への『称賛』の証明だった」
- ^ 10月8日付毎日新聞夕刊11面 縮刷版p.331
- ^ a b 日経27面 縮刷版p.461
- ^ 『朝日新聞』1994年10月8日名古屋朝刊東海総合面29頁「今日でお別れ『ナイター列車』新駅開業で役目終える」(朝日新聞名古屋本社)
- ^ 当日の『スーパータイム』では冒頭数分間ナゴヤ球場から中継した後、山中秀樹キャスター(当時フジテレビアナウンサー)は「今日はナゴヤ球場以外のニュースは3つ、4分20秒しかお伝えできません。ほとんどナゴヤ球場の中継になります」と告げた。この為、この日は、実質トップ中継の体裁となった。
- ^ 10月11日付毎日新聞夕刊12面 縮刷版p.404
- ^ 「伝説の10.8決戦」前夜、長嶋監督と桑田真澄のとんでもない会話内容とは?【プロ野球世紀末ブルース】
- ^ 吉村『アナウンサーは足で喋る』、P.41、P.43。
- ^ 吉村『アナウンサーは足で喋る』、P.43-P.45。
- ^ 吉村『アナウンサーは足で喋る』、P.71-P.72。
- ^ 23面 縮刷版p.355
- ^ 19面 縮刷版p.251
- ^ 10月10日付日経 スポーツ24面縮刷版p.486「勝者が4位タイ、敗者が最下位となる"大一番"」
- ^ 文藝春秋社『10.8巨人VS中日史上最高の決戦』P.145
- ^ 10月13日付東京新聞夕刊3面E版、日経等の新聞縮刷版(13日付夕刊)でも確認可能
- ^ 2086号 p.65
- ^ 2008年10月8日付のスポニチ 5面 (東京都で発行11版)「"14年前の再現"宣言」、ニッカン2面(東京都で発行7版)「10.8原記念日」(原は1995年10月8日の現役選手最後の出場試合で本塁打を打った)、10月9日付のスポニチ 3面「やっぱり10.8巨人の日!!」、報知新聞 2面(東京都で発行10版)、ほか
- ^ 2008年10月9日付報知1面(東京都で発行 10版)
- ^ 16面 原紙(宮城県で発行15版)で確認
- ^ サンケイスポーツ『中日・高木監督、怒!「投手コーチに聞いてくれ」(2012年10月23日時点のアーカイブ)』2012年10月22日 紙面から、同年10月26日閲覧、中日スポーツ『守道監督、最終決戦 今度は勝つ(2012年10月25日時点のアーカイブ)』2012年10月22日 紙面から、同年10月26日閲覧、毎日新聞同年10月23日23頁(同新聞サイト『中日・伊藤、快投劇の再現ならず』 同年10月26日閲覧)
- ^ 原監督舞った!「10・22」新伝説/CS - 日刊スポーツ2012年10月23日
- ^ 高木監督「3連勝したから悔しいよ。とにかく悔しい」…中日(2012年10月23日時点のアーカイブ) - スポーツ報知2012年10月23日
- ^ 2010年の野球#8月、2010年NPBスローガン「ここに、世界一がある。」スペシャルコンテンツ
- 1 10.8決戦とは
- 2 10.8決戦の概要
- 3 試合直後
- 4 その後
- 5 脚注
10.8決戦
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「10.8決戦」も参照 1994年の斎藤は、シーズン当初は快調に勝ち星を重ねたが、チーム打線の調子の低下もあり、8月24日に13勝目を挙げて以来勝ち星がなく、シーズン終盤を迎えていた。優勝のかかった10月6日のヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)に先発登板したが、1点リードの7回表に打順が回ったところで代打を送られて降板し、7回裏に槙原が逆転打を打たれて勝利投手となれず、チームも8日の同率首位最終決戦に臨むこととなった。 10月8日の対中日戦は、巨人先発の槙原寛己が2回途中で相手打線に打ち込まれ、斎藤にリリーフ登板が告げられた。2回裏、2-2の同点で、無死走者一、二塁であった。後年、斎藤は「(前回登板から)中1日だったし、出番は無いと思っていたけど、ブルペンで投げていたらコーチが『おい、斎藤』と。思わず聞こえないフリをした」と述べている。桑田と同様に斎藤も試合前日に監督の長嶋茂雄に呼び出され、出番について告げられたとする文献もあるが、斎藤は否定している。 斎藤はこの回を、今中慎二のバントを処理した際に二塁走者を三塁で封殺、続く清水雅治から三振を奪い、同時に今中のバントで二塁に進んでおり、大きくリードをとっていた中村武志を捕手村田真一が牽制球でアウトとして、追加点(逆転)を阻んだ。この後、巨人は勝ち越しに成功。斎藤は6回に彦野利勝の適時打による1失点があったのみで、6回まで投球して、この試合の勝利投手となった。7回からは桑田が斎藤を救援する形で登板し、そのまま試合は終了。「胴上げ投手」となった桑田は、自著『桑田真澄という生き方』で「(槙原が早い段階で降板したため)『これは、早い回に代わるかもしれないぞ』と思った。二番手の斎藤さんは、シーズン後半に調子を落としていたから、(中略)しかし、斎藤さんが中日の勢いを止めた。(中略)巧みなピッチングで、6回の1失点に抑えた」と述べている。 斎藤は、試合終了後のインタビューで、「やればできる、できるんです。最後の最後でいい仕事ができた」と大声で叫んだ。後年、さらに、「5回途中に内転筋を痛めたが、テーピングをグルグルに巻いて投げた。あの試合で投げられたことが自信になり、さらにレベルアップできたと思う」と述べた。
※この「10.8決戦」の解説は、「斎藤雅樹」の解説の一部です。
「10.8決戦」を含む「斎藤雅樹」の記事については、「斎藤雅樹」の概要を参照ください。
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