赤嶺旋風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/17 14:49 UTC 版)
赤嶺旋風(あかみねせんぷう)は、1947年の暮れに当時の中日ドラゴンズの球団代表であった赤嶺昌志が辞任した際11人の選手を連れて球団を去った事をきっかけに、1952年まで続いた戦後間もなくから2リーグ制移行後初期の日本プロ野球を代表する事件である。
- ^ 1940年オフに翼軍と合併し大洋軍となった。
- ^ 大和球士の著作から。大和は連盟登録の際に休止時の球団名「産業軍」もしくは「名古屋軍」と表記しておれば流転の人生を送らずに済んでいたと分析しているが、これについては生前赤嶺本人も口にしていて「一生一代の不覚だった」と後悔していた
- ^ 鈴木惣太郎『プロ野球 今だから話そう』(1958年、ベースボール・マガジン社 NCID BN1475502X), p120
- ^ 11人のうち古川清蔵が阪急ブレーブスに移籍し、松尾幸造・長島甲子男が引退
- ^ 東急との合併交渉の間に国民野球連盟の大塚アスレチックスと行動を共にしていた事が問題とされた
- ^ 藤原鉄之助が読売ジャイアンツに移籍し離脱、後に藤原は広島カープに移籍し結果として一派と同じ球団に属している
- ^ 阪急ブレーブスへ移籍
- ^ 両者とも中日に移籍
- ^ 解散などの具体的内容は決められていなかったが、日程の組みにくい7球団体制を改めるため、下位球団を整理するという意図は背景に存在した。
- ^ 当時の大洋ホエールズは山口県下関市が本拠地だった。
- ^ 名目上は助監督を兼任する格好だった。
- ^ 西沢は元々前身の名古屋軍~中部日本軍出身で、中日から復帰を要請された際に、坪内も一緒に移籍させることを要望したという。
赤嶺旋風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 00:22 UTC 版)
1947年、プロ野球選手の赤嶺昌志が他選手を巻き込んで集団辞任した様子を喩え、マスメディアで使用された。
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