松竹の合併と広島への移籍失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 01:28 UTC 版)
「赤嶺旋風」の記事における「松竹の合併と広島への移籍失敗」の解説
赤嶺派9人の加入により松竹ロビンスはセ・リーグの初代リーグ優勝となるが、シーズン中から真田重蔵と赤嶺派の一人だった小鶴誠の間に不和が生じて内紛が勃発。これが遠因となって小西得郎が監督辞任した1951年以降にチームが弱体化する。結局松竹ロビンスは、1952年に「勝率3割以下のチームに処罰を行う」という開幕前の取り決めへの抵触とオーナー企業の田村駒の経営悪化のために大洋ホエールズと合併し、「大洋松竹ロビンス」となり消滅する。これを機に赤嶺は赤嶺派の選手と共に広島カープへの移籍を画策するが、赤嶺の球団代表就任が中国新聞のスクープですっぱ抜かれると頓挫。結果として選手が移籍しただけで終わり、赤嶺は連盟総務として残ることとなった。以後赤嶺はプロ野球の規約を和訳するなどルール作りに残りの人生を捧げることとなった。広島に移籍した選手たちは市民たちに熱烈な歓迎を受け、小鶴に至っては夜汽車で広島駅に到着したにも関わらず大勢の市民が駅に駆けつけた。この逸話は中沢啓治の『広島カープ誕生物語』にも記されている。
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