松竹のシスター・ピクチャー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 01:23 UTC 版)
「B級映画」の記事における「松竹のシスター・ピクチャー」の解説
1952年まで日本映画の興行は一本立てで、二本立てを行う映画会社は無かった。しかし興行する映画館では戦後の復興が進んで、映画館も活況を呈してきた頃から、二本立てを望む声は多かった。いわゆる一番館では出来なくても二番館から下の館では、違う映画会社の作品を組み合わせて二本立てで興行を行う映画館も出てきていた。しかし映画会社は過当競争と作品の質的低下、製作費の高騰などを恐れて躊躇していたが、1952年4月に当時の映画業界のトップであった松竹が二本立て興行に踏み切り、その際にアメリカと同じく1本は長編、もう1本は40~50分の中編として映画を製作し、この中編映画を当時松竹はSP (シスター・ピクチャー) と名付けて、4月10日に西河克己監督、佐田啓二・幾野道子主演の「伊豆の艶歌師」を長編物「雪之丞変化」と同時上映で実施した。これが当時の松竹SP第1号で上映時間は45分であった。松竹はこのSPの製作にあたり監督や俳優のトレーニングの場とし、また二本立てを行うことによって契約館を増やし、映画館側が他社の作品と抱き合わせでの二本立て興行を阻止する狙いがあった。その後に小林正樹監督、石浜朗・小園容子主演で「息子の青春」(45分)、野村芳太郎監督、同じ2人の主演で「鳩」(45分)などが公開されている。小林正樹と野村芳太郎はその翌年に本来の長編物(フューチャー)の監督になった。SP映画は新人の育成には大きな成果があり、後に大島渚や山田洋次もこのSP作品の監督を経験するところから本格映画でのデビューを果たしている。しかし、興行面での契約館の増加は目標通りには進まなかった。それは松竹カラーとしての文芸作品が多く地味で、興行側からはそれほどの評価は得られず、やがて1954年に入るとSPを30~40分物に縮小した。
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