前身チームと戦時体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 04:48 UTC 版)
「大映ユニオンズ」の記事における「前身チームと戦時体制」の解説
大映野球の母体の一つである産業軍は新愛知新聞社が保有していた名古屋軍が1944年に改称したものだが、この親会社である新愛知新聞社は長年競合関係にあった名古屋新聞社と1942年に対等合併して「中部日本新聞社」となった。 名古屋新聞社は1936年にプロ野球球団名古屋金鯱軍を結成していたが、戦局の悪化で1941年に翼軍との合同を余儀なくされて大洋軍となり、さらに旧翼軍側の都合で1943年に球団経営は西日本鉄道に肩代わりされていた。従って一方の金鯱軍を手放したのだから名古屋軍も手放すべきだという意見が出た。また、新聞社が営利企業を持つべきではないといった意見も出たため、中部日本新聞社は経営から離れて同社取締役の大島一郎が個人的にスポンサーとなっていたが、結局名古屋軍理事の赤嶺昌志が球団を引き継いだ。赤嶺は軍需産業の理研工業(旧理化学研究所を母体とする理研コンツェルンの一企業)をスポンサーに付け、選手を理研工業の工場従業員として従事させる事で戦中の球団維持に成功した。 1946年、理研工業の解体で拠り所を無くした赤嶺は再度中日の大島一郎をスポンサーに付けることに成功。しかし、スポンサーだったはずの中日は一転して球団経営権にも介入。元来前身の新愛知新聞社が保有していた球団でもあり、元のさやに収まったのだとして、事実上赤嶺から球団経営権を奪還した(現在の中日ドラゴンズ)。赤嶺は追放に近い形で退団を余儀なくされたが、赤嶺に義理を感じていた一部の選手は行動を共にし、大映野球結成に動いた。 詳細は「赤嶺旋風」を参照 一方の母体である金星スターズは、田村駒社長の田村駒治郎が保有していた朝日軍が戦時体制で球団を維持できなくなり、やむなく田村駒系企業の奈良県御所町に所在する工場長をしていた橋本三郎が田村から球団を預かり、選手はこの工場の職員として従事させる事で球団を維持していた。1946年、橋本は田村から連絡がなかったとしてそのまま田村駒から独立し、大部分の朝日軍選手を母体にゴールドスターを結成。田村の猛反発を受けるも、既得権を盾にプロ野球参入に成功した。田村は連盟の鈴木龍二の説得を受けて最終的に加盟を了解した。
※この「前身チームと戦時体制」の解説は、「大映ユニオンズ」の解説の一部です。
「前身チームと戦時体制」を含む「大映ユニオンズ」の記事については、「大映ユニオンズ」の概要を参照ください。
- 前身チームと戦時体制のページへのリンク