赤嶺代表解任と中日集団退団
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中日は中部日本だった1946年に7位で最下位(パシフィックと同率の最下位)、翌1947年には2位でシーズンを終えているが首位の大阪タイガースとは12.5ゲーム差でお世辞にも優勝争いに絡んだといえなかった。これを期に本社はシーズンオフの11月1日に赤嶺を球団代表から解任、本社から中村三五郎を招請し球団代表に据える。内紛の全責任を赤嶺に押し付けた上でチームの再建に着手するはずだったが、赤嶺の後を追って以下の12人の選手とマネージャーの小阪三郎が集団で退団することになった。 加藤正二・野口正明・岩本章・古川清蔵・小鶴誠(以上、外野手) 藤本英雄・井上嘉弘・松尾幸造(以上、投手) 藤原鉄之助・長島甲子男(以上、捕手) 三村勲(三塁手) 金山次郎(二塁手) 彼らは中日の主力だっただけに、この集団離脱は中日はもとより日本野球連盟に混乱を巻き起こす。
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