赤嶺正周
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赤嶺筑登之正周(あかみね ちくどぅん せいしゅう、康熙55年〈1716年〉12月28日 – 乾隆7年(1742年)8月13日)は、琉球王国の官人。唐名は郭啓烈、童名は眞竃。許田家六世赤嶺筑登之。小禄間切赤嶺地頭職を務めた。
生涯
康煕55年に赤嶺家五世正明の長男として生まれる。母眞那武樽は那覇西村兼次筑登之の娘・思玉を母に持ち、のちに正信に嫁し、幼少時より正信家で育てられた。父正明が正信の嗣子であったため、正周はその縁により誕生した。
雍正6年(1728年)に親見世若筆者として仕官し、以後5年間勤仕。雍正8年(1730年)に結髪し、正式な成人の儀式を終える。乾隆3年(1738年)に親見世筆者として筑登之座敷に叙され、翌年には祖父正信の家跡を継ぎ、小禄間切赤嶺地頭職に任ぜられ、知行高十五石を賜った。
乾隆7年(1742年)8月13日、病没。享年27。法号は清光。
系譜
参考文献
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