新球団と選手の引き抜き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 02:37 UTC 版)
「プロ野球再編問題 (1949年)」の記事における「新球団と選手の引き抜き」の解説
パ・リーグは、同一のリーグに加盟する様に既に確約していた毎日・西鉄クリッパース(現在の埼玉西武ライオンズ、以下西鉄)・近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズで現在は消滅、以下近鉄)、それに既存の阪急・南海・東急・大映の7球団で創立された。一方、セ・リーグは既存球団の巨人・阪神・中日・松竹ロビンス(大陽ロビンスからこの球団名に変更したが現在は消滅、以下松竹)の4球団だけであった。リーグ分裂以前に新球団の加盟に反対していたためであるが、リーグが分裂して球団数が極端に減少したため、分裂前の8球団程度まで増やす必要があった。また、新たなファン開拓のために、中国・九州両地方の球団の創設が求められた。下関市の大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ、以下大洋)と広島市の広島カープ(現在の広島東洋カープ、以下広島)の2球団がセ・リーグに加盟したことで、中国地方はセ・リーグが先行したが、九州地方は福岡市の西鉄がパ・リーグに加盟したためパ・リーグが先行した。 九州地方の対戦相手を強く望む巨人は、西鉄が西日本鉄道と西日本新聞の2企業の共同出資であることに目をつけ、西日本新聞を分離してセ・リーグに引き込み、西日本パイレーツ(現在は消滅、以下西日本)を結成させた。 パ・リーグの大手私鉄系の球団が西鉄・近鉄・阪急・南海・東急の5球団も揃った一方で、セ・リーグへの加盟を計画していた小田急は球団の所有を断念したため、阪神が唯一となったが、その計画倒れに終わった小田急と入れ替わる形で国鉄スワローズ(現在の東京ヤクルトスワローズ、以下国鉄)が加入し、セ・リーグは8球団で1950年のシーズンを行った。 一方、毎日は阪神の監督でありながら、フロントとの軋轢が絶えなかった若林忠志を選手兼任監督に招聘し、別当薫、土井垣武、呉昌征ら、若林を慕い、あるいはフロントに不満を持っていた阪神の主力選手を次々と引き抜いた。それに対し、セ・リーグの巨人は阪急や東急の主力選手を引き抜き、西鉄との分離で戦力がない西日本に与え、またセ・リーグの常任理事に就任した赤嶺昌志は大映の小鶴誠ら旧「赤嶺派」の選手を引き抜き松竹に入団させた(赤嶺旋風)。こうしてセ・リーグとパ・リーグの間で熾烈な引き抜き合戦が起きた。
※この「新球団と選手の引き抜き」の解説は、「プロ野球再編問題 (1949年)」の解説の一部です。
「新球団と選手の引き抜き」を含む「プロ野球再編問題 (1949年)」の記事については、「プロ野球再編問題 (1949年)」の概要を参照ください。
- 新球団と選手の引き抜きのページへのリンク