新球団広島カープに移籍
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1949年のシーズンオフ、かねてから噂になっていた新球団の加盟-2リーグ分裂が現実となり、12月になって白石は郷土に創設された初の市民球団である広島カープへの移籍を打診される。「郷里で野球生命を終えたい」と決意し、選手兼助監督として広島に移籍した。しかし、真の理由は自身の年齢と、三原監督排斥運動などによる巨人の不穏な状況に嫌気がさしたため、ともされる。移籍に伴って、縁起をかついで敏男から勝巳に改名した。なお、広島カープでは背番号1を付けた。 創設時の広島では唯一のスター選手で、観客はみな白石を見に行ったとさえ言われる。その後も、弱小球団と呼ばれ続けたチームを牽引し、何度も存続の危機に見舞われたチームを救うことになった。 1950年3月16日の対中日1回戦(福山三菱球場)では広島の第1号本塁打を放つ。しかし、早くも5月には給料が遅れ始め、広島商業出身で数字に強い監督の石本秀一が後援会を組織した。選手が来ないとファンが集まらないため、一番の人気選手だった白石も毎日のように集会に狩り出された。さらに、「お願いします」と頭を下げるだけではなく、歌をうたったり、隠し芸を披露したりしたという。また、当時の広島の本拠地は観音球場(広島県営球場)だったが、ギャラの前払いをしてもらえるのがありがたかったらしく、呼ばれれば河川敷や学校のグラウンドなど、それなりの広さがある場所ならどこでも公式戦を開催した。グランドと観客席の間にロープを張って試合をすることも多かったが、ファンが広島に都合のいいようにロープを引っ張ることがあり、しばしば相手チームともめた。1953年4月1日に大田垣喜夫の母校である尾道西高校(現:尾道商業高校)で開催された対大洋松竹ロビンス戦では、外野席のファンが「白石の打った球だ! ホームランにしてやれ!」とみんなでロープを前に出し本塁打にしてしまった。洋松監督の小西得郎は猛抗議をしたが判定は覆らず、これは「ナワ・ホームラン」と呼ばれた(なお試合は1対2で広島が敗戦)。また、1950年6月7日に三次市の河川敷にあった十日市町営球場で行われた対大洋戦では、川土手を即席で観客席にしてグラウンドとの間をロープで仕切った。この試合で広島は本塁打6本を含む28安打を放ったが、これはチーム1試合最多安打として現在もセ・リーグ記録となっている。 その後、樽募金などファンの熱烈な支援があったが、特に後援会の力は絶大で、1953年に小鶴誠・金山次郎・三村勲の3選手の入団を実現するなど大きな力となった。しかし、応援会の活動が行き過ぎて弊害も生じる。球団に金を出してくれるだけならよいが、次第に選手個人を応援する後援会が形成されるようになると、それがエスカレートして食事の誘いがかかり、いわゆるタニマチ状態になった。酒好きの選手も多かったためプレーに支障が出たりしたほか、特に酒つながりの後援会はタチが悪く、契約更改の時に押しかけ、球団が選手を辞めさせようとしようものなら食ってかかってくることもあったという。 白石は広島でも1番・遊撃手を務める。守備の人のイメージが強い白石も、広島創設初年度となった1950年は5月28日の対西日本戦で1イニング2本塁打を放つなど本塁打20本、打率.304(リーグ13位)とキャリアハイの打撃成績を残し、広島でただ1人ベストナインに選出された。また、翌1951年も8月には4試合連続本塁打をマークするなどチームトップの12本塁打を打ち、打率.288(リーグ14位)と好成績を残している。
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