槙原寛己とは? わかりやすく解説

槙原寛己

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/02 04:10 UTC 版)

槙原 寛己(まきはら ひろみ、1963年8月11日 - )は、愛知県半田市出身の元プロ野球選手投手)、野球解説者野球評論家タレントYouTuber


注釈

  1. ^ この試合は、巨人軍公式戦通算7000試合目と節目の試合であった。
  2. ^ 日本プロ野球では、人工芝球場初、ドーム型球場初の完全試合であり、完全試合がテレビで全国に生中継されたのも初めてのことだった。
  3. ^ その功績を称えて他球団の選手で唯一、「暖手の広場」に手形が設けられている。
  4. ^ 槙原の完全試合について記者からコメントを求められた前田は、「槙原さんに言うとってください、『ワシと(前田と同じく怪我で欠場していた)江藤さんのいないカープを抑えて、そんなにうれしいですか』と」と答え、悔しさを滲ませた。そして同年7月9日の同カード(広島市民)で槙原からバックスクリーンへ本塁打を放った際は「完全試合以来、槙原さんが出てくると(気持ちが)熱くなった。明らかに普通とは違った緊張感がありました。そうした逆境が僕を燃えさせるんです」と語っている。

出典

  1. ^ 会社概要」『オフィスコンサルティング株式会社』。2024年3月25日閲覧
  2. ^ 『'85プロ野球 12球団全選手百科名鑑』 第9巻第3号(通算:第88号、1985年3月号)、日本スポーツ出版社、1985年3月31日、37頁。 
  3. ^ a b 読売新聞1983年4月8日夕刊3面「晴れの開幕"1軍キップ" 躍り出た50番トリオ」読売新聞縮刷版1983年4月p321
  4. ^ 読売新聞1983年4月17日17面「SBO 掛布も脱帽 "第4の投手"へ期待十分」読売新聞縮刷版1983年4月p663
  5. ^ 読売新聞1983年4月17日17面「槙原熱投、完封デビュー 10回を5安打9奪三振」読売新聞縮刷版1983年4月p663
  6. ^ 読売新聞1983年11月10日17面「MVPは原(セ・リーグ)と東尾(パ・リーグ) 新人王に槙原(巨人)と二村(日ハム)」読売新聞縮刷版1983年11月p363
  7. ^ 『永久保存版・日本プロ野球名投手100人』槙原寛己の項目(1989年、ベースボール・マガジン社
  8. ^ 元阪神・バース氏「僕らのおかげで君は有名に」バックスクリーン3連発を浴びせた槙原氏をいじる」『デイリースポーツ online』株式会社デイリースポーツ、2023年3月30日。2023年3月30日閲覧
  9. ^ 読売新聞1985年6月29日17面「巨人・槙原が球団通算5000本塁打」読売新聞縮刷版1985年6月p1163
  10. ^ 読売新聞1985年7月15日19面「巨人・槙原が左股関節負傷」読売新聞縮刷版1985年7月p625
  11. ^ 読売新聞1985年7月18日17面「槙原が股関節骨折で入院」読売新聞縮刷版1985年7月p763
  12. ^ a b 読売新聞1986年5月4日17面「槙原10か月ぶりに一軍昇格」読売新聞縮刷版1983年5月p125
  13. ^ 日刊スポーツ1986年5月11日2面「槙原4回KO 300日ぶり先発飾れず」
  14. ^ 読売新聞1986年9月7日16面「セ、槙原とクロマティ 月間MVP パは石毛が3度目」読売新聞縮刷版1986年9月p268
  15. ^ a b 『パーフェクトとKOのあいだ - ここ一番の投球心理』(光文社
  16. ^ 読売新聞1986年10月7日17面「巨人痛恨の1敗、首位滑る」読売新聞縮刷版1986年10月8日p317
  17. ^ 読売新聞1987年10月17日17面「YGリポート 一味違った槙原 偵察隊も『オヤ?』」読売新聞縮刷版1987年10月p815
  18. ^ 読売新聞1987年10月30日17面「槙原快投!西武止める 奪11三振、3安打完封」読売新聞縮刷版1987年10月p1393
  19. ^ 読売新聞1989年7月30日19面「巨人・槙原寛己投手(二五)が右ひざ痛で退場」読売新聞縮刷版1989年7月p1477
  20. ^ 読売新聞1989年8月1日19面「槙原、今季は絶望 半月板損傷で近く手術」読売新聞縮刷版1989年8月p19
  21. ^ 読売新聞1989年10月20日19面「日本シリーズ出場有資格選手」読売新聞縮刷版1989年10月p995
  22. ^ 読売新聞1989年10月25日19面「『先発したい』槙原」読売新聞縮刷版1989年10月p1263
  23. ^ 読売新聞1990年10月11日19面「槙原10勝届かず 巨人、公式戦を終了 広島2位確保」読売新聞縮刷版1990年10月p547
  24. ^ 読売新聞1990年10月19日19面「SBO 槙原ー中尾 不用意な棒ダマ」読売新聞縮刷版1990年10月p1091
  25. ^ 読売新聞1990年10月25日19面「流れは一球で決まった」読売新聞縮刷版1990年10月p1309
  26. ^ a b 読売新聞1991年7月20日21面「SOB 両チームの今季を象徴 槙原8回ついに沈む」読売新聞縮刷版1991年7月p989
  27. ^ ベースボール・レコード・ブック1993
  28. ^ スポニチFLASH photo & blog スポニチBlog 槙原寛己のベースボール見聞録|上原、今年はその身をチームに捧げてよ!
  29. ^ ジャイアンツ広場 動画 YOMIURI ONLINE(読売新聞)
  30. ^ 週刊プレイボーイ』2009/06/15号(集英社
  31. ^ 著書 パーフェクトとKOのあいだ
  32. ^ 新庄のサヨナラ敬遠打は「絶対にベースを踏んでいた」と槙原 NEWSポストセブン 2015年8月23日閲覧。
  33. ^ 槙原寛己 Gの“50番トリオ”から“先発三本柱”へ/プロ野球1980年代の名選手 | 野球コラム」『週刊ベースボールONLINE』2019年3月27日。2021年4月10日閲覧
  34. ^ 第二話 小松辰雄さんが絶対勝てないと思ったピッチャーデーブ大久保チャンネル 2021/04/12 (2022年4月10日閲覧)
  35. ^ a b 週刊ベースボール1986年9月15日号「G党ワクワク対談 槙原寛己VS堀内恒夫 150キロは捨てた。それよりチームの勝利!」p16-p20
  36. ^ “G魂”注入!?元巨人選手 東海大臨時コーチに
  37. ^ 元巨人・槙原氏が告白 “プロ生活20年間ずっと・・・・・・”[リンク切れ]
  38. ^ 落合博満自伝『勝負の方程式』(小学館 1994年6月 ISBN 4093871213
  39. ^ 大野豊自伝『全力投球:我が選んだ道に悔いはなし』(2001年、宝島社ISBN 4796621237
  40. ^ 『クセ者:元木大介自伝』(双葉社、2006年3月、ISBN 4575298794
  41. ^ 2008年12月15日放送の『Jスポ』で山本昌との対談「すべらない話」。
  42. ^ 槙原寛己氏 「墓場まで持っていくつもりだった」衝撃告白 血染め熱投の裏で起きていた「前夜の大事件」」『スポーツニッポン』2023年7月29日。2023年7月31日閲覧
  43. ^ 元巨人軍夫婦 引退後の人生SP
  44. ^ 槙原寛己氏、完全試合の佐々木朗希に大あっぱれ「まだまだやる可能性は十分…だから怖い」」日刊スポーツ、2022年4月17日。2022年6月22日閲覧
  45. ^ 佐々木朗希の完全試合に28年前達成の槙原寛己さんは脱帽「大アッパレ…今回見て参ったと。拍手を送ることしかない」」中日スポーツ、2022年4月17日。2022年6月22日閲覧
  46. ^ 槙原 寛己(読売ジャイアンツ) | 個人年度別成績」『日本野球機構』。2024年3月25日閲覧
  47. ^ 年度別成績 1988年 セントラル・リーグ」『日本野球機構』。2024年3月25日閲覧
  48. ^ 5000号は槙原寛己/巨人の記念本塁打一覧」『日刊スポーツ』2017年9月26日。2023年9月17日閲覧


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